=グリゴリー・クバチャン撮影
写真提供:グリゴリー・クバチャン
ロシア西部への植民は、ソロヴェツキー修道院を通じて進んだ。ほぼ自治状態であった修道院は裕福で権威があり、独自の学校、工場、軍、船団や、ロシア帝国屈指の図書館を保有していたが、1917年の社会主義革命でそれらは全て強奪、破壊された。1920年代に入ると、この場所にソロヴェツキー特別収容所が開設され、そこからロシア全土に強制収容所網が広がっていった。その後第二次世界大戦が始まると、この島で孤児が北方艦隊の見習い水夫として訓練された。
だが、過酷な時代はもはや過去のものになった。今日、島には修道士が暮らし、ここは観光名所の一つとなった。風光明媚な自然環境に加え、ユネスコの世界遺産に認定されたことも追い風となった。
修道院は現在、巡礼者や旅行者を輸送する、イコンの装飾が施されたボートを再び保有することとなった。修道院には菜園があり、花や野菜が栽培されている。おいしいピローグをつくる製パン所もある。なお、現在のロシアではほとんど見られなくなった、「コズーリ」と呼ばれる模様入りしょうがクッキーをつくる伝統がここには残されており、土産物店で販売されている。家、フクロウ、クマ、シカ、天使などの形をした焼き菓子にはアイシングが施され、美しく彩られている。
島にいる人は主に、修道院で働いている人か巡礼者や旅行者だ。マリヤ・ニキフォロワ(55歳)さんは、毎日船着き場に行き、到着する旅行客を探すのが日課となっている。手には「快適な客室」と書かれたボードを持つ。客室は薪用ペチカのある簡素な木造小屋で、「快適」な床穴式の木製トイレがある。この村にはホテルが少なく、訪問者の多くがこだわりを持たないバックパッカーや正教の巡礼者である。
大きな地図で見る |
傾きかけた小屋のわきには、バイクやトラックが放置されているが、ほとんどの家は居住可能だ。洗濯物は風にさらして乾燥させるが、日照時間が限られているため、ワイシャツなどを干せば数日はかかってしまう。
ソ連崩壊後、島には仕事がなく、住人の一部はロシア本土に引っ越したが、今では戻ってくる人もいる。多くの人にとって、ここは伝統的なロシア文化と精神が息吹を取り戻している場所なのだ。ピョートル1世の時代のオランダ製設計図に基づいて、納屋でヨットを造っている人もいれば、伝統的な民族衣装のルバシカを裁断したり、陶器を作ったり、木を切ったりと、昔の手工芸を復活させようとしている人もいる。
ここは秘教マニアにも人気がある。島には古代の石の迷路があり、何の目的でつくられたのか、いまだに解明されていない。学者の多くが、昔の漁民が宗教儀式への出発地点として使用していたと推測している一方で、UFOファンは宇宙人が残していったか、そうでなければ少なくとも、強大な古代文明の遺跡であると信じている。
重要な観光名所の一つとして、セキラ山の灯台教会も忘れてはならない。頭頂部の十字架の下に、ロシア国防省の管理下に置かれた大きな灯台の明かりがあるのが特徴だ。その下の部分はすべて、修道院の所有物となっているが、軍事戦略上、国家の所有物とみなされる明かりまでは、登ることが許されていない。
海の上には、人を全く恐れない、丸々と太ったカモメが飛び交っている。旅行客がエサを与えているのだ。カモメは人にエサをねだり、パンを手元からそのままちぎって行く。長い空白の時間を経て、ソロヴェツキー諸島に満腹の時が戻ってきたのだ。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。