第二次大戦中のボリショイ劇場

=アナトーリ・ガラニン/ロシア通信撮影

=アナトーリ・ガラニン/ロシア通信撮影

モスクワ・ボリショイ劇場の団員は、第二次大戦中も活動していた。団員が当時を回想する。

1941年10月、モスクワ

ドイツ軍がモスクワ市郊外のヒムキ市に接近したという噂が街中に広がり、大勢の人々がモスクワ市から国内各地に続く道を通って避難を始めた。8名の若者グループが「ナツィオナリ」ホテルの下に深い穴を掘り始めた。モスクワを離れなければならなくなることを想定し、体育大学の学生全員が中心部の主要な建物に爆弾を敷設する戦闘作業を行った。どこよりも簡単に敷設できたのが、ボリショイ劇場だった。オーケストラピットの真下に、何の障害もなく穴を掘ることができた。

その数日前、政府の決定により、ボリショイ劇場の団員と高価な舞台セットがクイビシェフ市に移送された。ストラディバリウスのバイオリン・コレクションとトレチャコフ美術館の絵画は、カザン駅に運び出された。カザン駅から列車が出発した直後、まさにその停止していた場所に、ドイツ軍が爆弾を数発投下した。

団員は9カ月疎開状態にあったが、この間ボリショイ劇場は放置されていた。入口の列柱は歌劇『イーゴリ公』の装飾でカモフラージュされ、伝説的なバレエ『タラス・ブーリバ』の絵画はバリケードにはめ込まれた。劇場広場のアスファルトには、画家が劇場と周辺の建物のトリックアートを描き、爆弾の直接投下をそらそうとした。10月28日、努力もむなしく、空襲警報が鳴った後にボリショイ劇場に500キロの爆弾が投下され、中央の入口で炸裂した。

その後、ドイツ軍の前線に包囲されたモスクワの街中で、オペラ・バレエのシーズンが開幕した。団員はほとんど全員が疎開し、劇場は閉まっていたが、分館がモスクワに残った団員の集会所となっていた。残った団員は政府に陳情し、1941年の年末、スタニスラフスキー・ネミーロヴィッチ・ダンチェンコ音楽劇場とボリショイ劇場の2カ所が再開されることとなった。

疎開していた団員は、すでにクイビシェフ市に生活の基盤を設けていた。1942年始め、ショスタコーヴィチの出身地で、封鎖に苦しむレニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)に向け、同作曲家の交響曲第7番『レニングラード』を疎開先で鳴り響かせた。

1943年にかけて、疎開していた団員がようやくモスクワに戻り、やっとひとつになることができた。また、1942年冬のマイナス40度の極寒の最中でも続けられたボリショイ劇場の修復も、ほぼ同時期に完了した。爆弾投下後、破損した外壁の一部には速やかに木製の補強材が取付けられたが、劇場内の気温は屋外と同じ状態であった。

1941年から1945年の間、団員はソ連兵を激励するために、しばしば遠征して演奏会を行った。直接前線に出向き、劇場の16楽団が1939回もの演奏会を行った。当時のスターリン書記長は戦時中であっても楽団を残しておく必要性を理解し、1000人の団員を兵役義務から解放したが、それを悔やむことはなかった。団員の中には、自らの意思で兵役を務めた者も多かった。1945年4月末には、ナチス・ドイツの国会の階段で、演奏会を行った。

団員のナタリヤ・ミハイロフスカヤさんはこう想起する。「半壊した大きな国会の建物には、箱や家具の焼けた臭いが残っていました。入口から右手に、大きな箱が3箱重ねられているのが見えました。これが『演奏会の舞台』になるんだろうなと思っていると、兵士の手が伸びてきて、私を箱の上にのせました。この建物の階段一段一段で、つい最近戦いが行われたんです。私が歌い始めると、この風変わりなコンサートホールに、火薬ですすけた軍服を着た兵士が四方八方から集まってきました。たくさんの兵士が、互いに支え合いながら、杖をつきながら、近づいてきました」。

ボリショイ劇場は、セルゲイ・プロコフィエフのバレエ『シンデレラ』を1945年に、『ロミオとジュリエット』を1946年に、それぞれ終戦記念として上演した。