ドゥブロヴィツィ邸のゴリツィンの教会

モスクワの南部には数々の中規模都市があり、大都会モスクワの産業地区や住宅市街地として機能している。それらの都市の間を流れるパクラ川の河畔に位置するのが、ポドリスク(人口約20万人)だ。モスクワ大公国の大貴族で、ピョートル1世の個人教師として侍講したボリス・アレクセーヴィッチ・ゴリツィン王子(1651?〜1714)のドゥブロヴィツィ邸は、ここに所在する。

ドゥブロヴィツィ邸のゴリツィンの教会。内装と外観

ドゥブロヴィツィ邸は1750年代に建造され、19世紀前半に新古典主義のスタイルに改装され、宮殿のような邸宅になった。しかし、ドゥブロヴィツィの最も重要な建造物は、その邸宅ではない。実際の見所は、敷地内の教会で、それはあまりにも奇異で意外な構造をもち、ロシアの教会の外見について抱く先入観を完全に覆してしまうようなものだ。

「印(Znamenie)の生神女イコンの教会」と呼ばれるこの教会の建立は、1690年に着手された。ゴリツィン王子は熱心な正教会の信者であったが、モスクワ大公国の先導的身分にある者としては初めて、モスクワの「ドイツ人地区」とよばれる外国人共同体と関わりを持った人物に数えられている。ピョートルのよき指導者として、ゴリツィンは西欧文化について自分がもつ知識を若きツァーリに話し伝えた。

1682年に異母兄のフョードル・アレクセーヴィチが亡くなると、ピョートルは精神障害があったもう一人の異母兄のイヴァン5世とともに、名目上の共同統治者となった。このあつれきの多い期間中、真の権力は別の親族、ソフィア・アレクセイヴナによって掌握されていたが、彼女はピョートルと彼の母方のナルイシキン家に反感をもっていた。1689年、劇的な対立が生じ、ピョートルはモスクワ北部の至聖三者聖セルギイ大修道院で、ソフィアの権威に対して公然と反抗した。心許ない地位におかれていたにもかかわらず、ボリス・ゴリツィンは、ピョートルを断固支持し続けた。 


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こうした運命の只中にあって、ドゥブロヴィツィ邸はゴリツィンにとっての避難と安らぎの場所であった。彼がドゥブロヴィツィ邸で建立を手がけた教会は、ロシア正教会への彼の信仰心と、宗教に対する彼のたゆまぬ西欧的な表現方法を物語っている。

18世紀の幕が開ける頃までには、ゴリツィンとナルイシキンの両家により、中央にタワーを据えた独特の様式の教会がいくつも建立された。この様式の最盛期は、ドゥブロヴィツィの教会が建立された頃、頂点に達した。もっとも、ドゥブロヴィツィの教会は立像のように見え、それは「印の生神女」として知られる生神女マリアの最も優雅で均整のとれたイコンのひとつに捧げられている。このイコンはズナメニエあるいはオランテとよばれ、生神女マリアが天に向かって手を伸ばして祈り、胴体のメダリオンに幼児イエスが配されるという構図のものだ。

左右の釣り合いがとれたこの教会の設計は、一番下の階層の上に位置する4つのふくらんだ筒型のような部分のさらに上にそびえ立つ、八角形の塔を基調としている。テラスと4つの筒型部分は、無比に広がる彫刻装飾のディテールと彫像のための基盤と化しているが、これは正教会の文化ではきわめて珍しいことだ。繁茂したような彫刻が施されたコーニスと4つの筒型部分の上には、教会の塔が頂点までのぼりつめる。その頂点には王権の威厳を示すかのような華麗な王冠が載っているが、これはキリストの冠も象徴するものだ。

表の入り口と内側の入り口との間は通常、個々のイコンや宗教に関する書籍のためのスペースになっている。入り口の間の上にはコーラスのギャラリー用に木造のプラットフォームがつくられている。しかしまだこれは前置きにすぎない。塔の中に光が差し入る部分へと導く廊下には、外側の装飾に匹敵するほどの視覚的効果が施されている。

バロック様式の屏風のようなパネル型のイコンは、ソビエト時代に破壊されてしまったが、タワー内の彫像はほぼ全てが保存されている。彫像の主題はキリストの受難で、磔刑の彫像はイコンの中央に配置されている。

数々ある彫刻の間には、石膏の渦巻き装飾が施されており、中世ラテン語による祈祷の詩が刻まれている(ゴリツィンはラテン語が堪能だった)。

この教会を建築した棟梁と彫刻家が誰であったかについては、かなりの憶測がとびかっているが、どれも確証は得られていない。ほとんどの歴史学者は、この教会の建築に関わったのは、イタリア・スイス系の職人であったと仮定している。18世紀初頭にサンクトペテルブルクで活動していた職人の多くがそうであったためだ。ピョート大帝は、彼の文化的革命のしるしとして、古典様式の彫像をイタリアから積極的に取り寄せたのだ。 

国力をかけたスウェーデンとの北方戦争の初期に、ピョートルに西欧文化を紹介するという重大な役割を果たした教育係によって建立されたこの教会の献堂に、ピョートル1世が出席していたという事実は、感慨深いものがある。ドゥブロヴィツィの教会は、モスクワ大公国文化の過敏なほどの装飾主義と、ロシア建築をビザンティンの影響から最新のローマ様式に変貌させた急速な西欧化の両面を、同時に表現している。