アンドレイ・タルコフスキー

アンドレイ・タルコフスキー:天使を見た監督=ロイター/ボストーク撮影

アンドレイ・タルコフスキー:天使を見た監督=ロイター/ボストーク撮影

アンドレイ・タルコフスキーは、1960年代初めに映画界入りした鬼才世代の、最も輝かしい旗手の一人だった。2012年4月4日はその生誕80周年にあたる。

幾多のイデオロギー上の障害にもかかわらず、アンドレイ・タルコフスキーは、自身がまさに想い描いていたように、「7½」本(7本の長篇劇映画、1本の短篇映画と1本の記録映画)の映画を撮影することができた。だが、自ら語っていたように、タルコフスキーは生涯を通じて一篇の映画を撮り続けていたのだ。人間についての、真実の追求についての、理想の探求についての映画である。

ソ連における同監督のデビュー作となったのは、ヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した『イワンの少年時代(邦題:僕の村は戦場だった)』である。その後、『アンドレイ・ルブリョーフ』、『惑星ソラリス』、『鏡』、『ストーカー』、そして亡命を余儀なくされてからさらに三つの作品、すなわち、『ノスタルジア』、『サクリファイス』、トニーノ・グエッラと共同制作の長篇記録映画『旅の時』が撮影された。タルコフスキーが母国でどのように受け止められていたかを物語るエピソードには事欠かない。たとえば、1980年に封切られた映画『ストーカー』は全部で196本のコピーが作られ、そのうちモスクワへ配給されたのは3本のみだったが、最初の数ヶ月で200万人がその作品を観た。イタリアへ映画の撮影に招かれると、タルコフスキーはもはやロシアへは戻らなかった。トニーノ・グエッラと共同で脚本を手がけた『ノスタルジア』は、政治とは無縁の作品だったが、やはり疑いをもたれた。それゆえ、国外での活動の継続を勧められた際、監督はそれに同意したのだった。ソ連は帰国を求めたが、タルコフスキーは拒否し、そのために裏切り者の烙印を捺された。

ポーランドのクシシュトフ・ザヌッシ監督は、アンドレイとのアメリカ訪問を回想し、こう語った。あるとき若いアメリカ人が、アンドレイに「幸福になるにはどうすればいいですか」とたずねると、アンドレイはこう答えた。「まず初めに、何のためにあなたがこの世に生きているかを考えることです。あなたの人生にどんな意味があるのかを。なぜ、あなたはこの世に、まさに今現れたかを。あなたにはどんな役割が定められているかを。すべてこれを解き明かしてみることです。幸福とは訪れたり訪れなかったりするものです」。

モスクワの国立映画博物館のナウム・クレイマン館長は、タルコフスキーは1962年というまさに絶好の時機に監督として登場したとして、こう語る。「それはフルシチョフの『雪解け』が進むのか滞るのかという、この国の歴史における一種の分岐点でした。タルコフスキーはまさにこの転換期に、自らへの問いかけと共に現れたのです」。

監督本人は、自身の実存主義的映画の主たる意味が精神的問題にある点を強調して、こう述べている。「この映画(『惑星ソラリス』)によって、私は精神の不屈さや純粋さの問題が、たとえば宇宙の洞察といった一見モラルとは無縁の分野にさえ現れつつ、私たちの全存在を貫いていることを立証したかったのです」。

アンドレイ・タルコフスキーの映画に出演した俳優ニコライ・ブルリャーエフ氏は、「監督は生涯神を求め、神へ向かう深い信仰の人だった」と語る。タルコフスキーを自分の師とみなす女優りナターリヤ・ボンダルチュークさんは、「タルコフスキーは今も真の芸術、そして永遠の芸術の旗を掲げています」と語った。

タルコフスキーは1986年12月にフランスで癌のため亡くなり、パリ近郊のサント・ジュヌヴィエーヴ・デ・ボワの墓地に葬られた。アンドレイ・タルコフスキーの墓碑には、「天使を見た人」という文字が刻まれている。日本の小津安二郎監督の墓石にも文字が、「無」という漢字一字が彫られている。この二つの碑銘は、直接的な意味においても、物理的な意味においても、大海原に隔てられているが(小津は日本の北鎌倉駅近くの墓所に眠る)、双方の映画作品や現実認識は多くの点でまさに親類といえる。ヴィム・ヴェンタース監督は「最初のカットから最後のカットまで続く長い真理」への眼差しが両巨匠に共通している点を指摘しつつ、自作の映画『ベルリンの空(邦題:ベルリン・天使の詩)』をタルコフスキーと小津に捧げている。