ウイリアム・ブラムフィールド撮影
ロシア文学の創始者といわれるアレクサンドル・プーシキン。彼にゆかりの名所は数多いが、その中でも最も叙情詩的で、プーシキンの生涯と結びついているのが、「プーシキンの丘」である。ミハイロフスコエ、ペトロフスコエとトリゴルスコエの三つの集落からなるこの丘は、古都プスコフの南東約120キロメートルにあり、その近くには詩人が埋葬されたスヴャトゴルスキー修道院がある。
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三つの集落の中で最も重要なのは、プーシキンの曾祖父、アブラハム・ペトローヴィッチ・ガンニバルが1742年にエリザベート女帝から与えられたミハイロフスコエ村だ。アブラハムの死後、この領地はその息子オシプに受け継がれ、オシプは母屋を建て、庭園を造った。彼の死後、邸宅は未亡人マリアの手に渡り、次に受け継いだのがプーシキンの母、ナデージダであった。
1866年に一度家は取り壊され、同じ場所に新しいデザインの邸宅が建てられた。その後建物は1908年と1918年に2度火災に遭ったが再建された。第二次世界大戦中に再びダメージを受けたが、1949年に 古い資料を元に、プーシキンの時代の姿により近い形で建て直された。つまり今ある邸宅と隣接する建物は、20世紀の復刻版ということになるが、当時の雰囲気は保たれており、訪れる人々はプーシキンの質素な生活を伺い知ることが出来る。
実際には、詩人はこの人里離れた領地に住むことはほとんどなかった。彼がここを初めて訪れたのは、ツァールスコエ・セロー(現在のサンクトペテルブルク市プーシキン区 – 編集部注釈)のアレクサンドル学習院を卒業した1817年の夏であった。後に彼は、この六週間の滞在について、「田舎での生活の楽しみを見出すことのできた素晴らしい時だった」と書いている。しかし、敏感な彼は、この農奴社会は必ずしも理想的ではないことを分かっていた。彼の反制的な感情は詩に反映され、そのためにアレクサンドル一世によりロシア南部へ追放されて、5年近くの年月をそこで過ごすこととなった。プーシキンがオデッサからミハイロフスコエに戻ることが出来たのは、1824年の8月になる。そこには彼の両親と姉オリガ、弟レフもいたが、11月に家族はペテルブルグに引っ越し、プーシキンは一人でそこに残った。
プーシキンにとっては物憂い田舎生活ではあったが、無駄な時間は過ごさなかった。時間を持て余す環境は非常に生産的ですらあった。ミハイロフスコエにいる間、彼は韻文小説『エフゲニー・オネーギン』や戯曲『ボリス・ゴドゥノフ』を執筆した。そして、年老いた乳母アリーナ・ロディオーノヴァと話し込むうちに、民俗文化への理解を深めることもできた。しかし、一番の暇つぶしは、隣のトリゴルスコエ村へ行き、プラスコーヴィア・オシポヴァの家族を訪ねることであった。
ミハイロフスコエ同様、トリゴルスコエの家も1918年の内戦で火災に遭ったが、第二次世界大戦後に建て直された。長屋のような形をしたこの建物は、昔は亜麻布を織るのに使われていた。1820年にオシポヴァ夫人と彼女の子供たち、一男四女がここに移り住んだ。オシポヴァ夫人は未亡人で、プーシキンに恋心を抱き、彼は訪れる度に歓待された。だが、詩人は1825年の夏にトリゴルスコエを訪れた未亡人の姪、アンナ・ペトロヴナ・ケルンに心奪われた。以前プーシキンはペテルブルグで既に彼女と知り合っており、この意外な再会に彼は舞い上がり、彼女に情熱的な言葉を送った。それが、「私はあの奇跡的な瞬間を覚えています」という有名な詩である。その後未亡人は彼らのロマンスを知り、ケルンを夫のいるリガへ送り返した。1826年にプーシキンはモスクワとペテルブルグへ戻ることを許されたが、ニコライ一世と国家憲兵の監督下に置かれた。
三つ目のペトロフスコエは、プーシキンの曾祖父ガンニバルとの関連性が強い。1781年にガンニバルの息子ピョートルに委ねられたこの領地は、面積こそ大きくはないが、この三つの集落の中では最も立派なものである。ペトロフスコエも1918年に火災に遭い、修復が完成したのは1976年であった。邸宅は自然公園に囲まれ、ペトロフスコエ湖までの道には数多くの小道やパヴィリオン、あずまやがあった。
この地域にあるプーシキン最期のゆかりの場所は、1569年にイワン雷帝の命により創立されたスヴャトゴルスキー修道院である。急な傾斜の小高い丘の上にあるこの修道院には、1569年に建てられたウスペンスキー大聖堂 (生神女就寝大聖堂)がある。プーシキンはしばしばしばこの修道院を訪れ、彼の親戚の多くもここに埋葬された。1837年1月29日、プーシキンは決闘で倒れ亡くなった。ペテルブルグでの葬儀の後、彼の遺体はこの修道院に運ばれ、ウスペンスキー大聖堂の東の壁近くに埋葬された。1839年暮れ、プーシキンの未亡人ナターリヤ・ニコラエヴナはペテルブルグの彫刻家、ペルマゴロフに大理石のオベリスクを依頼した。1840年に、詩人の生年月日と死亡年月日のみ書かれたオベリスクが建てられた。ロシアの最も偉大な詩人にとっては、それ以外の言葉は余計なものだったのだ。
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