アラル海の復興に光

ソ連邦の綿花生産優先政策は、アラル海の砂漠化を招き、ひいては国家崩壊の一因ともなった。だが今、アラル海の北部地域は、再び繁栄を取り戻しつつある。その背景には、同湖の環境問題の第一人者、ロシアの科学者ニコライ・アラジンの尽力があった。

アラル海=Life/Vostock-Photo/ロイター通信/ AFP/Eastnews/タス通信撮影

 ニコライ・アラジンは、さびついた小さな廃船に近づいた。その船首にはまだ文字が残っており、「オットー・シュミット」と読み取ることが出来る。かつては湖底だった地面は歩くことができ、そのまま地平線へと向かい、周りの砂漠と継ぎ目なく溶け合っていた。

 サンクトペテルブルクのロシア科学アカデミー動物学研究所教授のアラジンは、アラル海環境問題に関する先駆者だ。同湖の北部地域、すなわちカザフスタン側の沿岸地域の環境が近年改善しつつあることは、彼の功績抜きには語れない。彼はこの地域を、悲劇的な環境破壊の象徴から、復興モデルの象徴へと変えさせたのだ。

 だが、彼のキャリアは困難を極めた。1980年代後半のグラスノチ(情報化政策)が開始されるまで、アラジンの研究と粘り強い提言は、しばしば無視された。

 彼が初めてアラル海を「見た」のは、1978年、動物学研究所での博士号取得の後、休暇でダイビングを楽しみに、同湖の北岸の港、アラルスクを訪れた時のことである。もっとも、この時既に湖は消滅しつつあったので、「見なかった」と言うべきなのかもしれないが。

 アラル海は、かつては世界で4番目の面積を誇った内陸湖であり、カスピ海の東側の砂漠に位置している(「アラル」はカザフ語で「島」の意味)。そこには、パミール高原の融雪水を水源とする、中央アジア西部を流れる二つの大河、シルダリヤ川とアムダリヤ川が流れ込んでいる。

 1960年代までは、アラル海は年間5万トンもの魚を産出した。しかし、その1960年代にソビエト当局は、同湖の消滅を予測しつつも、制服の服地になる綿花の栽培と火薬の生産のために、二つの河川の改造に着手した。

 「私がアラルに着いた時、港は乾いていて、湖は30キロ以上も離れていました」とアラジンは回想する。この頃既に、アラル海の塩分濃度 は、20年も経たない間に、四倍以上上昇していることが判明。 その上昇のスピードはおそらく、歴史上類を見ないものだった。そこで彼はサンプルを採取し、それを計測。そして、同地域の生態系の環境適応について、自らのライフワークとして研究することを決意した。

 しかし、サンクトペテルブルクに戻ると、彼の提案には回避的な回答が待ち受けていた。綿花栽培のために魚を犠牲にする、という政策は秘密ではなかったが、 当局は最悪の結論が導き出されることを恐れ、同地域の生態系と地元住民の生活に関するあらゆる調査を奨励しなかった。西側のアラル海環境問題の第一人者、西ミシガン大学地理学教授のフィリップ・ミックリンは、1980年代初頭のソ連国内の研究論文について、こう振り返る。「アラル海の水位低下や塩分濃度の上昇については、部分的に言及されることはありました。 しかし、砂漠化問題に的を絞った専門論文は皆無でした。」

 当時アラジンは、カスピ海に関する類似研究に転向することを余儀なくされ、アラル海問題への研究資金は、海洋学者である父親に頼らざるえない状況であった。学会での口頭発表は時として認められたが、論文の刊行は許可されなかった。

 状況を一変させたのは、ゴルバチョフによるグラスノチ(情報化政策)の開始である。アラジンの研究は論文として刊行されるようになり、綿花生産優先政策がもたらした、北岸のカザフスタン及び南岸のウズベキスタンの沿岸住民への健康被害の実態が、世に知られることとなった。科学アカデミーは彼に、汽水生物研究所という独自の研究所すら与えた。

 しかし、当局がようやく悲劇からの脱却を模索し始めるも、ソ連邦は崩壊。アラル海に残った三つの湖は、ウズベキスタンとカザフスタンの国境によって分断されることとなった。そして、ロシア科学界の権威者たちは、調査旅行費用を自分たちの「かつての所有物」に費やすことに消極的になった。その背景には、民族主義的感覚の芽生えもあったが、純粋に資金が自由にならないこともあった。 アラジンは「カスピ海を研究するように」進言された。

 一方で、西側の支援者たちは、自分たちの国の科学者や、カザフスタン、ウズベキスタンにではなく、ロシア人に資金を提供することを問題視し始めた。

 そうした中アラジンは、表向きはカスピ海研究に戻ることとなった。父の死後、彼はアラル海の研究資金を、調査旅行に観光客を同行させるなどして、旅行そのものから利潤を上げることで調達することを試みた。だが、それは確実な手段ではなかった。ピアニストや法律家、専門領域の異なる研究者三人を同行させても、帰宅のための交通費300ドルを、彼らから借りなければならないこともあった。

アラル海の砂漠化の発展= = ニヤーズ・カリム

アラル海の砂漠化の発展= = ニヤーズ・カリム

 1993年、彼はカザフスタンの地元当局に、アラル海北部に、シルダリヤ川からの水をせき止める簡素な堤防を築くことを勧めた。その結果、塩分濃度は下がり、ある程度魚も戻って来たが、堤防は水位が上がると何度も決壊した。

 その後、世界銀行がついについに乗り出すことになった。8マイルに及ぶ土製の堤防とコンクリートの水門の建設に資金を調達し、2005年には堤防が完成。それによって、アラル海への水の蓄積と湿地生態系の回復が可能となった.

 6年後、カザフスタン側のアラル海の漁獲高は3,500トンから18,000トンに上昇したと,  地元の漁業ディレクター、ザウルカン・ヤルマハノフは言う。 漁師たちは、簡素な刺し網だけで年間6,000トンを引き上げている。同地域には新居や、校舎、衛星アンテナが創られ、現在アラルスクでは41施設の魚加工工場が操業し、雇用を創出している。

 今日、カザフスタン政府は、石油と鉱物資源輸出ブームのおかげで、世界経済上、債権者の立場となっており、アラル海の復興をさらに一段階進めることを計画している。 具体的には二つの計画が考えられている。第一に、コカラル堤防を高くするとこで、水位はさらに20フィート上昇し、水面積も 2,125平方マイルから 3,125平方マイルに拡大することが見込まれている。さらに、運河を建設することで、シルダリヤ川の水をアラリスク周辺に流入させ、港として街を復興させることも計画されている。

 アラジンは今も毎年アラル海に足を運んでいる。そして、両策の積極的な推進を提言し続けている。