現代の悲劇を予告

アレクサンドル・ソクーロフ監督タス通信撮影

アレクサンドル・ソクーロフ監督タス通信撮影

アレクサンドル・ソクーロフ監督の新作『ファウスト』は、ゲーテの悲劇の自由な解釈だ。そしてこの映画は、権力をめぐる連作映画『モレク神』『牡牛座』『太陽』の完結編でもある。しかし…私がソクーロフ氏本人に「この作品は一体始まりなのか、終わりなのか」と尋ねると、彼は「その両方さ。四部作は環になっているんだ」と答えた。環と四部作ということについては、ヒトラーを描いた映画『モレク神』にその暗示があり、ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』を思い起こさせる。

 どうして、ソクーロフの『ファウスト』は、ヒトラー、レーニン、昭和天皇などの権力をめぐる映画の環につながるのだろうか。映画の最初から、ファウストは理性と合理性の権化として現れる。理性が浸透した合理的な世界とは「魔法を解かれた世界」であると、かつてマックス・ヴェーバーは、シラーの言葉を引いて定義した。世界は魔術を、宗教を、神を失おうとしている。この魔術からの解放は、主として、現代 の資本主義と民主主義がつくりだしている科学・技術・経済の急速な「進歩」に現れている。 

『ファウスト』のスクリーンキャプチャ=kinopoisk.ru
『ファウスト』のスクリーンキャプチャ=kinopoisk.ru

 しかし重要なのは、魔術からの解放で権力が変容し、魔術や儀式的なものとのつながりを失いつつあることだ。儀式は官僚主義と「事なかれ主義」に取って代わられる。

 ヴェーバーは、指導者にはカリスマ性が不可欠だと考えていた。カリスマ性とは本質的に魔術的、宗教的なもの、その後光である。しかし、あらゆる官僚主義や拝金主義は、無残にカリスマを破壊する。そこでカリスマを装うために、大統領は官僚どもの上に「飛び上がり」、カーニバルの衣装を着ようとする。大統領は人前で乗馬したり、飛行機やレーシングカーに乗ったりするのが大好きだ。

 かくして、ソクーロフの『ファウスト』の理性にはすでに、カリスマ性の喪失の胚珠が潜んでいる。映画の後半に、メフィストフェレスがファウストを馬に乗せ、騎士の甲冑を着せるエピソードがある。メフィストフェレスは、自分の被保護者のいかがわしい「超人性」に偉大なる幻影をくっつけようとし、単なる犯罪性を「主権」に変えようとする。超人性は、その素顔を、エゴイズムとニヒリズムをむき出しにするのだ。

 ソクーロフは『ファウスト』で、カリスマの危機の由来を解き明かし、現代の権力全般の危機の所以を理解させてくれる。映画の空間設計も本当に素晴らしい。中世ドイツの狭苦しい路地や、イワシの缶詰のように人間がびっしり詰まった空間から、聳え立つ火山と果てしない地平線へと、映画全編が、息苦しさから開放感へリズミカルに鼓動している。要するにソクーロフはロシアでは稀な、哲学的で美的に完全な映画を作ったのだ。
 

ソクーロフの『ファウスト』の予告編