ロシアの女性選挙権の5つの事実

Getty Images撮影
 サウジアラビアで8月、女性に参政権を与える法律が発効し、有権者登録が始まった。女性用の特別な投票所は国内に1000ヶ所以上設置される見込み。西アジアの女性が選挙権を手にしたのは、世界の他の地域よりも遅かった。ロシアでは、共産主義者の到来とともに女性が選挙権を獲得したと考えるのが一般的だが、実際にはそうではなく、獲得のための闘いはなかったと考えるのも間違っている。
  1. 知られざる選挙権付与の経緯

 ロシア革命時の1917年、ロシア人女性は選挙権を得た、と学校の教科書に書かれている。帝政時代を終わらせ、皇帝を殺害し、国を70年間支配することとなるボリシェヴィキ(当時はウラジーミル・レーニンが率いていた)が、女性に投票権を与えたかのような錯覚を受ける。

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100年前の新聞記事

 だが歴史は少々異なる。これより半年前の1917年2月、民衆の暴動があり、皇帝に代わってゲオルギー・リヴォフ公が暫定政府を率いた。ロシアの女性に選挙権を与えたのは、リヴォフ公である。ただ、政権には長くとどまらなかった。

 当時女性に選挙権を与えていた国は、ニュージーランド、ノルウェー、デンマーク、フィンランド、オーストラリア、アメリカの一部の州の6ヶ国である。

 

  1. 4万人の女性がデモ

 1917年当時、ロシア女性同権連盟という大きな組織があった。数百人のメンバーは国中にいた。1917年3月3日、新聞で暫定政府のプログラムが発表されたが、そこには女性の選挙権が含まれていなかった。メンバーは当時の首都サンクトペテルブルクで、あらゆる層の女性たちに選挙権の重要性を訴えた。連盟の幹部はリヴォフ公に要求を送付。だが要求の検討は却下された。

 3月19日、4万人の女性がサンクトペテルブルクでデモを実施。女性騎手が先導し、2隊のブラスバンドが続いた。列の中央では革命家ヴェラ・フィグネルを載せた自動車が走っていた。デモ隊は国会まで進み、議員への面会を要求。交渉は夜遅くまで続いた。その結果、リヴォフ公は女性の選挙権を認め、合意した。

 

  1. 時間が足りずに

 強い女性組織がロシアにあらわれ始めたのはこれより半世紀前。女性が大学での受講を許された時代である。

 ロシア女性同権連盟の関係者は第1次ロシア革命(1905年)後に、選挙権の問題を国会議員に訴えた。下院の最初の会議は長時間におよんだ。男性と女性は同等ではない、女性は家事をすべき、下院はそのような動きをとるにはまだ新しすぎる、といった意見が述べられる中、レフ・ペトラジツキー教授はこう述べた。「女性の参政が望ましい。政治に関わるということは、社会の福利について考えるということであり、”利己的”な利益ではなく、共通の利益に興味を持つことを意味する」。その結果、法案が起草された。

 しかしながら、その後の政治の混乱により、作業を完了させる下院の招集は実現されなかった。

 

  1. 女性の参政を嫌がった男性たち

 男性と女性が参加する初めての選挙は、1917年の夏と初秋には実施された。市議会選と自治会選である。

 だが村ではさまざまな問題が起きた。ある村の自治会選では、女性が参加したからという理由で、男性が参加を拒み、くり返し選挙には女性を入れなかった。他のいくつかの地域では、農民の男性が女性に投票をさせなかった。

 村では女性が自分たちの権利のために何年も闘わなければならなかった。

 

  1. 女性が自ら権利を守る

 女性の権利保護に取り組み始めたのは、政府機関の婦人部すなわち婦人労働部門(1919年創設)。

 8時間労働の許可および深夜労働の禁止、産休および出産手当という新たな権利を、政府は女性に与えた。また、男女差のない最低賃金を設定し、夫婦の権利を同じくした。

 男性は婦人部が家庭に悪影響を与えると考え始めた。婦人部の関係者が襲撃される事件は数百件発生し、殺害事件に発展するケースもいくつかあった。1930年、婦人部は解散。ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンは、国内で「女性の問題」は解決された、と述べた。

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