原子爆弾RDS-1の実験、1949年8月29。
Getty Images撮影核実験成功
1949年8月29日午前7時ちょうど、セミパラチンスク核実験場とその周辺にまぶしい閃光が走り、電線がバチバチと音を立て、その後静まった。ソ連初の原子爆弾RDS-1の実験は成功した。
原爆の開発が始まったのは、第二次世界大戦中の1943年のことである。ソ連の諜報員はイギリスから、原子力エネルギーに関する秘密の科学報告を渡していた。諜報員はまた、アメリカの複数の核研究センターにもいた。
「諜報員によって渡されたアメリカのプルトニウム爆弾に関する資料によって、RDS-1を製作する際に、いくつかのミスを回避し、開発期間を大幅に短縮し、コストを削減することができた」とロシアNOWに話すのは、国営単一企業「ロシア連邦原子力センター・全ロシア実験物理学研究所」のヴァレンチン・コスチュコフ所長。
アメリカ、イギリス、ソ連は、1940年代初めから、軍備拡張競争で他の2ヶ国よりも優位に立とうとしていた。アメリカでは1941年末、核開発に多額の資金が配分されていた。その成果はプルトニウム型の原爆「ガジェット」で、1945年7月16日にニューメキシコ州アラモゴード砂漠において実験が行われた。
「デモンストレーション」の時期が訪れ、アメリカは世界、特にソ連に対し、自国の新たな可能性を示そうとした。第二次世界大戦を勝利で終わらせるため、日本を攻撃することを決定。1945年8月6日には「リトルボーイ」というコードネームの原子爆弾を広島に投下し、続いて8月9日に爆弾「ファットマン」を長崎に投下した。
日本の都市に原爆が落とされたことは、ソ連の指導者スターリンに衝撃を与えた。そしてソ連の安全保障の主な課題が、独自の原爆の速やかな製作となった。開発にはイーゴリ・クルチャトフやピョートル・カピッツァなどの一流の研究者が関わった。
諜報活動によってソ連の物理学者は時間を節約することができた。「アメリカのプロトタイプの技術ソリューションの多くが理想的でないことは、当初から明らかだった。初期段階でもソ連の専門家は、爆弾としても、個々の構成要素としても、最適なソリューションを提供することができた。だが、ソ連政府の要求は、リスクを最小限に抑えた保証できる爆弾をつくるというものだった」とコスチュコフ所長。
アメリカがすでに実験した構図を活用するという決定は、当時の緊迫した状況のもとでは唯一の正しい決定だったと、コスチュコフ所長は考える。RDS-1のデザインはアメリカの「ファットマン」の模倣で、弾道体と電子充填物がソ連の開発だった。
ソ連が核兵器を開発しているという情報は、アメリカ政府を動揺させた。アメリカは1949年7月、ソ連の70都市に原爆を投下する「トロヤン」計画を立てた。
アメリカはソ連が1954年以前に原爆を保有することはないと考えていたが、1949年に核実験が成功したのである。セミパラチンスク核実験場での実験は、アメリカの核兵器モノポリーに終止符を打った。
「ソ連が独自の核兵器を持っていなかったら、遅かれ早かれ国が破壊されていただろう。良くてもアメリカの従属国になっていた」とモスクワ国立大学歴史学部の教授で歴史学博士のアレクサンドル・ヴドヴィン氏は話す。
1970年、核不拡散条約が発効。現在では加盟国が188ヶ国になっている。1996年には包括的核実験禁止条約に署名が行われた。その後核実験を行ったのは、条約の非加盟国であるインド、パキスタン、北朝鮮のみである。
核兵器保有国
世界で行われた核実験の総数は2000回以上で、核保有国は公式データによると8ヶ国。ソ連は1949年から1990年までに核実験を715回行っている。アメリカは1945年から1992年までに核実験を1000回以上行っている。現時点で、アメリカは、原爆を実際に使用した唯一の国。ソ連とアメリカ以外で核兵器をつくった国は、そしてイギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、北朝鮮。イスラエルにも核兵器があると考えられているが、公式発表は行われていない。
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