最北の工業都市ノリリスクの生活

Pavel Kuzmichev
 世界のプラチノイドとニッケルの埋蔵量の1/3以上が集中する土地。そこに住み続けられるのは、頑健な人々だけだ。

 「ノリリスクはいつまでも私の心に、私の肺に」と、ノリリスク市民は言う。人口は17万5千人で、その半数近くがノリリスクの鉱山冶金コンビナート(ノリリスク・ニッケル社の傘下にある)に勤務し、市民生活はコンビナートと密接な関係にある。

 鉱石の採掘に従事する鉱山労働者や、工場に勤務する技師、ロジスティクスの専門家など、市民は様々な職種に就いている。

 我々は銅加工工場を取材した他、10年以上の鉱山勤務を経てパフューマ―に転職した人物に会い、鹿肉コーヒーも味わって来た。 

銅はどうできるか

 銅加工工場が建設されたのは1949年。工場の近くまで来るとすぐに硫黄の匂いと、舌先に硫黄の味まで感じられる。二酸化硫黄は溶解炉の稼働時の副産物で、現場に近づくほどに匂いは強くなる。

 ノリリスク・ニッケル社は取材に対し、「硫黄プログラム」を開発したと説明した。2023年末までに、硫黄をキャッチして石灰で中和し、石膏にして建設用混合物にも使用できるシステムを実現するとのことである。将来的には、排出量を9割削減できるという。

 放出される有害物質のために、溶解作業場の従業員の一部は防塵マスクどころか、蛇管式のガスマスクを装着しているほどだ。銅精鋼が精錬される転炉が火花を散らす光景をバックに、ガスマスク姿の作業員が歩き回る様子は、あたかもディストピア映画の一場面のようである。

 バケットが熔融した銅を炉に移し、不純物を取り除いた銅アノードを得る。銅の融点は1000℃を超えるため、強力な換気装置が稼働していても、作業場は非常に暑い。アノードは型に流し込まれ、トロッコで電気分解作業所に送られる。

 そこで3週間、硫酸に浸けられる。こうして完成するのが、工場の主生産品である純銅の銅板である。

ノリリスクのキャリア考

 ノリリスクの鉱石の大半は地下700~900メートル(一部、地下2キロメートルの場所もある!)で採掘される。ノリリスクのザポリャルヌイ鉱山の付近には「メドヴェジイ・ルチェイ」(熊の小流の意)という名の採掘場がある。現在、鉱石の露天採掘が行われているノリリスクで唯一の採掘場だ。

 採掘場の主任技師アルチョム・メリコフ氏は、「ここの鉱石は特別です。15の鉱物のうち、我々が採掘しているのは9種。いずれも非鉄金属で、銅、コバルト、ニッケル、プラチナ、金などです」と語る。近年の試算によると、ノリリスク近郊にはプラチノイドが世界の埋蔵量の約40%、ニッケルが約35%、コバルトが約15%、銅が10%ある。

 鉱石は山中に埋まっており、採掘するためには爆発物を使って山肌を削らなければならない。鉱石は、タイヤが人の背丈を越すほどの巨大なホウルトラック(通称「ベラーズ」)で運ばれる。その後、鉱石は選鉱工場で加工されて精鉱となる。

 銅の精鉱は銅加工工場に送られ、ニッケル精鉱と磁硫鉄鉱はナデジュディンスキー冶金工場に送られる。

 工場の作業は高度なもので、高い集中力を要し、手抜きは到底できない。ノリリスクの事業所にはアルコール検査を経ないと入れない上に、出る時も検査をする。それでも、ロシア全土から期間労働者として、もしくは本契約を結びにやってくる。

 専門労働者の給料は「内地」と比較しても、最低でも1.5倍ほどだ。例えば溶解作業場の場合は月給10万ルーブル(1100$)スタート。最も給与水準が高いのは、地下で作業する鉱山労働者だ。

ノリリスクを味わう

 もっとも、ノリリスクは生活費も高い。原因は、何もかも他所から仕入れていることだ。とはいえ、ノリリスクで生産される食品もある。

 例えばノリリスクのレストランでは、北方地域の伝統的な食事である鹿肉やストロガニナ(凍らせた魚の薄切り肉)の他、ノリリスクで製造されているビールも味わえる。

 1944年から醸造が始まったビールで、2000年代初頭に工場は経済的苦境から一旦閉鎖されたが、2009年に旧来の技法を維持したまま新工場がオープンした。生産される飲料は保存期間が短いため、他所では販売されていない。

 一方コーヒーファンは、ノリリスクに行けば世界一変わったコーヒーを味わえるだろう。なんとそれは、すりおろした鹿肉(現地の人はユコラと呼ぶ)入りなのだ。

 「鹿の干し肉は、密度がビターチョコレートに似ている」と、このコーヒーを考案したセルゲイ・セルビン氏は語る。トッピングは他にもある。「ツンドラ」という名のコーヒーはクラウドベリーとコケモモ入り。「オーロラ」というコーヒーにはハッカとユーカリのトッピング。「北極の息吹を感じられますよ」とは、セルビン氏談。

 コーヒーにデザートが欲しいなら、アイスクリームはいかがだろうか?ノリリスクは、アイスクリームも鹿肉入りだ。一見すると、チョコチップ入りのアイスのように見える。考案したのはノリリスク在住のニーナ・フェドートワさん。彼女は北方料理の大ファンなのだ。

 元鉱山労働者のアレクサンドル・シャポワロフは、ノリリスク市民には新鮮な野菜が不足していると考えた。現在彼は、キュウリや青物野菜の温室栽培を行っている。

タイムィルの香りとは?

 元鉱山労働者アレクセイ・ボルタチョフ氏は、ロシア最北のパフューマ―となった。ノリリスクの鉱山で実に10年も働いた後の転職である。彼はロシア中部のウドムルト共和国から2010年に「愛のために」ノリリスクにやってきた。彼の妻が、ノリリスク出身だったのである。「君と一緒なら地の果てまでも行くよ、と言ったんです。で、本当に地の果てにやってきました」とのことだ。

 数年前から香料作りに熱中し始めた。「香料は、小瓶に詰まった空想と情緒です。これこそ、私たちの普段の生活に最も不足しているものではないでしょうか」と、ボルタチョフ氏は語る。

 「短い夏、厳しい冬、鮮やかなオーロラなど、タイムィルの自然からは沢山のインスピレーションが得られます」

 オンラインで講習を受け、講師が送って来た成分を調べて記録し、試験を重ねて、オリジナルの香料の公式を作り出していった。2020年に自らのブランドMr.Bollex Woodmurtを登録し、「タイムィルの香り」と題したラインナップを開発。今では人気のお土産品となっている。

 このラインナップには、ベリー系の香りの「ツンドラ」や、柔らかい清涼系の香りの「オーロラ」などがある。「極寒の中で緑の鮮やかさを伝えたい、というアイディアがありました」とボルタチョフ氏は言う。

 最も軽い香水は「水のように爽やかで透明」なため、シベリアの川「エニセイ」の名がつけられた。変わり種は、ノリリスクの景勝地クラスヌイエ・カムニ(赤い石)までの散策をテーマした香水で、赤すぐりと野ばらを使って赤色を出している。

去るか、残るか

 ノリリスク近郊に豊かな銅鉱が存在することは何世紀も以前から知られていたが、本格的な開発が始まったのは20世紀、ソ連が工業化に舵を切って工場の建設を開始してから。都市は1935年にノリリスク収容所の囚人たちが建設したのが始まりで、収容所が1956年に閉鎖された後は、ソ連中から若手技師がこの地に集まって来た。

 ソ連崩壊までノリリスクは閉鎖都市であり、特別な許可無しには市内に入れなかった。現在、市内に入る許可が必要なのは外国人のみで、ロシア国民は自由に出入りして、極圏の工業都市の生活を垣間見ることができる。そしてその生活は、人の忍耐が試されるものだ。

 多くのノリリスク市民は、ある程度稼げたら「内地」に移住したい、と私たちに話してくれた。街を去る市民に対して、市とノリリスク・ニッケル社は引っ越しの補助を行っているが、そのためには最低でも10年の勤続期間が必要だ。極寒の冬や極夜に耐えきれず、わずか数週間でノリリスクを去るケースもある。しかし、2~3年のつもりで来たら、そのまま住み着いてしまったというパターンの方が遥かに多い。

 バス運転手のユーリー氏は、ソ連時代に兵役を済ませたあと、シベリアの奥地からノリリスクにやってきたと言う。当時は「コムソモールの出張」と通称された、極圏での突貫建設事業に参加するためだった。若い頃は鉱山での仕事に加え、遊び歩く体力もあったが、今ではさすがに体力が衰えたので、バス運転手をしている。

 休暇中に妻と訪れたヴォルゴグラードをいたく気に入り、2人で移住を決意した。土地も購入済みなので、あとは定年を待つばかりだという。

 オリガ・パルソワさんとミハイル・パルソフ氏の夫妻は、クラスノヤルスク地方では名の知れたアーティストだ。絵を描いたり、北方のモチーフを取り入れた小物を制作し、創作イベントも頻繁に開催している。彼らは、極圏特有の安息を得られたノリリスク市民の好例だ。オリガさんいわく、娘は成人してから他所へ移って行ったが、夫妻はノリリスクからパワーを貰い続けているという。移住する気は全く無いそうだ。

*** 

 ノリリスクの生活は、市から90km離れたドゥディンカ港無しでは成り立たない。シベリアの大河たるエニセイ河の河畔に位置するこの港には「内地」から生活必需品が運ばれ、コンビナートの製品が積み込まれる。1年を通して航行可能だが、特異な点もある。ここは世界で唯一、毎年の雪融け時に浸水する港なのだ。詳しくは、次回の記事でお話ししよう。

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