なぜこの街は「シベリアの首都」と呼ばれているのか?(写真特集)

Legion Media
 1世紀とちょっと前、ノヴォシビルスクは人口わずか数千人の小さな村だった。しかし今では、ロシアで3番目に人口の多い都市になった。

 シベリア南西部にあるノヴォシビルスクはユニークな記録を誇っている。ここには、ロシアのアジア部で最大のプラネタリウム、最大の動物園、劇場、そして空港があり、また世界最長の地下鉄橋(2145㍍)がある。また長さ7㌔のクラスヌィ大通りは世界で最も長い通りの一つであり、逆に40㍍のシブストロイプト通りは、最も短い通りの一つである。

ノヴォニコラエフスク(現ノヴォシビルスク)の風景、19世紀末〜20世紀初頭

 ノヴォシビルスク(1926年までの名称はノヴォニコラエフスク)は1893年に、オビ川に架かる鉄道橋を建設する労働者のための小さな村として創建された。貿易会社の社員、ジュリウス・シュミットは「現在は醜悪な、急いで造られたたくさんのビルに、鉄道やさまざまな商いのためにやってきた労働者たちが溢れている」と書いている

ノヴォシビルスクの風景、1913年

 しかしながら、村が地理的に良好な場所に位置していたことから、忘却に陥ることはなかった。村は、主要な川の岸に位置していたばかりでなく、そこにはロシアのヨーロッパ部と極東をつなぐ大シベリア鉄道(シベリア横断鉄道の当時の名称)が通っていたのである。

ノヴォシビルスクの風景、1927〜29年

 経済も急速に成長し、人口も急増しているのを見たソ連教育人民委員のアナトリー・ルナチャルスキーは、1928年、ノヴォシビルスクを「シベリアのシカゴ」と名付けた。創建されてから69年も経たないうちに、100万人都市となったが、これは完全なる世界記録であった。現在の人口は160万人超で、モスクワとサンクトペテルブルクについでロシアで3番目に人口が多い。

ノヴォシビルスクのオビ川に架かる橋

 第二次世界大戦の戦場から離れた位置にあったノヴォシビルスクは赤軍にとって安全な戦線後方となった。30ほどの大規模な生産企業がソ連西部から疎開し、前線で必要なものを作るため効果的に機能した。ソ連軍が使用した砲弾の4分の1はノヴォシビルスクで製造された。

オビ川に架かる鉄道橋

 都市は産業だけでなく、学術面でも大きく発展した。1930年代の初頭、数十の学術研究所、デザイン大学などが作られた。1957年にはアカデムゴロドクと呼ばれる最も重要な学術教育センターが開設され、現在、その名声は国外でも広く知られている。

ノヴォシビルスクのレーニン広場にて

 ソ連の誇りであるノヴォシビルスクは、外国からソ連を訪れた主要な訪問客にも紹介された。スウェーデンのオロフ・パルメ首相、フランスのシャルル・ド・ゴール大統領、アメリカのリチャード・ニクソン大統領も異なる時代にこの街を訪れた。1970年、人類史上初めて月面歩行をしたニール・アームストロングは、オビ川にあるノヴォシビルスク貯水池―オビ海とも呼ばれる―の岸で、フィッシュスープを調理した。

ノヴォシビルスクのプラネタリウム

 国の他の地域と同様、ソ連邦崩壊後の1990年代初頭にはノヴォシビルスクも大打撃を受けた。資金繰りが激減し、地域間の経済関係が崩壊し、工業生産は3分1に落ち込んだ。状況が落ち着きを取り戻したのは2000年初頭になってからであった。

 現在、ノヴォシビルスクはシベリア最大の経済、文化、輸送、教育、学術の中心地である。ノヴォシビルスクの行政センターとシベリアのシベリア連邦管区は非公式ではあるものの、「シベリアの首都」の名を主張するに相応しい場所となっており、他にこの地位に匹敵する街はない。

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