アナディル:ロシアでもっとも辺鄙で、もっとも物価が高い街

Yuri Smityuk/TASS
 寒くて、何もかもから遠く離れていて、食べ物も住宅もとんでもなく高い。なぜ人々はチュコトカの首都に引っ越してくるのだろうか?

 地球の端にある厳しい気候のこの小さな町に来るとき、人はまったく違うものを予想しているかもしれない。しかし現代のアナディルは実際には、ロシアでもっとも色鮮やかな町の候補に挙げることができる。ここにはほぼすべての住宅が壁画で飾られている。好奇心旺盛なセイウチの群れが行き過ぎる人々を眺め、別の住宅からは巨大なトナカイがウインクを投げかける。町には曲がりくねった快適な通りがあり、近代的な映画館やスポーツクラブ、北極の動物の像で飾られたいろいろな公園もある。

芸術品並みの値札

 モスクワから、チュクチ自治管区の首都アナディルまでは、8時間以上、飛行機に乗らなければならない。ここはロシアとユーラシアでもっとも東に位置する町で、それ以東には、小さな居住区がいくつか点在し、あとは果てしないツンドラだけが広がっている。街はその他の居住区からかなり離れた場所に位置しており、ここに運ばれてくるあらゆる商品は、たちまち数倍の値段になる。およそ1万5000人の人口を持つアナディルがロシアでもっとも物価の高い街ランキングで上位を占めているのも驚くべきことではない。

チーズの値段は1500ルーブル(約3600円)だが、中央ロシアで同じチーズの値段は610ルーブル(約1475円)

 地元の商店で売られているものの値段は、観光客に本物の衝撃を与える。たとえば、牛乳パックはロシアの平均価格の3〜4倍。新鮮な野菜や果物は4〜5倍である。しかもこれは夏の値段で、冬になるとこれがさらに上昇する。

 住民たちも、ここの商品の値段は、ある種の町の「見どころ」だと話す。まったくありふれたものが考えられないほど高いのは、アナディルにある日用品を含むすべての品は、海上輸送でしか運ぶことができないこと、また良い天気(それはなかなかない)のときしか運ぶことができないことによる。

アナディル地区のベーリング海で魚を釣っている人々

 厳しい地理的条件と厳しい天候により、ここには鉄道も一般自動車道もない(町の外郭に、水陸両用全地形対応車のようなものが走れる特別な道はある)。飛行機はもちろんあるが、かなり高価である。アナディルに食料品が運ばれる時期は6月半ばから11月の初旬まで、しかも天候が良いときだけである。商品はウラジオストクで大型船に積み込まれ、1ヶ月かけておよそ3700㌔を移動する。船はまずアナディルに行き、その後、チュクチのその他の居住区をまわる。夏の間にアナディルには数便の船が来る。

 チュクチ自治管区で作られている商品もあり、それらの値段は輸送されてくるものに比べるとかなり安く、ロシアの平均的な値段と変わらない。アナディルでは、パンも焼かれ(小麦粉はもちろん運ばれてくる)、トナカイ肉やベニザケ、温室で育てられているハーブなどもある。地元の企業家らは、1年中、キュウリやトマトを栽培することができるよう温室ビジネスを発展させようとしているが、今のところまだビジネスは始まったばかりである。

アナディルで生産されているソーセージ

 アナディルで物価が高いのは食料品だけではない。住宅も―それがどのような形のものであれ―極めて高い。この辺鄙な田舎町のホテルでは、もっとも安い部屋でも、モスクワのような物価が安くはない街の4つ星ホテルほどの価格となっている(1泊1万ルーブル=およそ24,000円)。

 またアナディルの「フルシチョフカ」のワンルームマンションの値段も、モスクワのワンルームとほぼ同等である(700万ルーブル=およそ1690万円より)。

 このようなあらゆる困難にもかかわらず、アナディル、そしてチュクチ自治管区に、多くの若い専門家がやってくる。町は、子どもが居住できるように整備されている。ただし、高齢者はここではほとんど目にすることはない。

北方のロマンティシズム

 アナディルは1889年に創建された(1934年まではノヴォ・マリインスクと呼ばれていた)。ソ連時代、アナディルのインフラには莫大な資金が投じられた。というのも、町は海上にある米国との国境に近いため、臨戦体制においておく必要があったからである。また、1950年代末には、ここで金と銀の埋蔵地が見つかったことから、仕事はたくさんあった。

1986年のアナディルの様子

 北方での生活は常にお金がかかるものであったが、ソ連時代には高額の給料が支払われ、また早期に年金生活に入れるなどの特恵があり、相殺されていたことから、「長いルーブルを受け取りに行く」という表現が用いられた。

 アナディルは大都市であったことは一度もない。人口は最大で1万7000人(1989年)だったが、ソ連邦解体に伴う経済危機により、その後の10年で人口は3分の2以下に減少した(チュコトカ全体では人口は3分の1になった)。多くの人々が家を売ってモスクワまでの航空券を買うというほど、状況は悪かったのである。

 2000年代の始めになって、人々が戻り始めた。住民によれば、当時のチュコトカの知事で、現在は有名な企業家であるロマン・アブラモーヴィチによるところが大きいという(2001〜2008年にかけて知事を務めた)。ロシアのメディアが報じるところによれば、アブラモーヴィチ氏は、地域に数百万ドルという所得税を納め、投資をした。アブラモーヴィチ氏は賃金に対する負債を返済し、新たな企業の発展に尽くし、地域の多くの居住区を整備した。そしてチュコトカは巨大な建設現場へと姿を変えた。かつての知事のことを人々は温かい気持ちで記憶している。なぜなら、かつて停滞していた地域を繁栄に導いたとは言えないまでも、瀕死の状態からは救い出してくれたからである。そして重要なのは、現在アナディルはまた、専門家たちが「長い北方のルーブル」を手にすることができる町になったということである。

チュコトカの生活

 チュコトカの人々の大部分は鉱業または金鉱に携わっている。というのも、ここにはロシア全土の金の10%ほどが埋蔵されているのである。アナディルには生産業はないが、人々は教師、医師、会社員として働いている。また海港や空港に関わる専門家もやってくる。

 多くの仕事はローテーション形式で行われている。雇用主は、給料の他に、住宅や交通費を職員に支払う。職員は2年に1度、国内であればそれがどこであろうと、帰省のための往復の交通費を支給する。またチュコトカで一定期間勤務をすれば、年金の支給開始年齢が早められる。また年金そのものも、この地域ではロシアの他の地域の1.5倍となっている。概して、数年、ここに働きにきて、マンションや家を買うための資金を貯め、故郷に帰るという人が多い。

アナディル空港にて

 この地域はかなり厳しい亜寒帯気候で(アナディルでは1年の大部分が冬で、夏は短く、寒い)、風が強く、太陽が出る日は少ない。しかし、ここに来る人々はそこにロマンティシズムを感じるという。

 セルビアからチュコトカにやってきて、輸送業に携わるムルフェトさんは言う。「生まれてから25年間、雪のないところで生活してきましたが、チュコトカで初めて寒さというものを体感しました。かつてここは閉鎖都市でしたので、どんなところに行くのか知らずにここに来ました。最初はショックを受けました。通りは前世紀のようでした。でも、それから何度か休暇で国に戻りましたが、ここは都会の問題に悩まされることなく、休息を取れる場所だということが分かりました」。

 ムルフェトさんは2007年にチュコトカに出張に訪れ、その後ここに住むことに決めた。「もっとも大きな利点は時間です。ここに住んでいると、読書もでき、また自分や家族のための時間が取れます。友人と交流する時間もたくさんあるのです。オンラインのフォロワーではなく、生身の友人がね」。

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