サンクトペテルブルクの風景
Legion Mediaロシアの「北のヴェネツィア」と言えば必ずサンクトペテルブルクを指す。川と水路が幾重にも連なっているからだ。街を作ったピョートル大帝が「我が子」をこう呼んだかは分からない(「楽園」と呼んでいたことは確かだ)。フランス人作家・冒険家のテオフィール・ゴーティエが1839年にペテルブルクに来た際に「まるで北のヴェネツィアのごとく、多くの島の上に建てられた街を無数の水路がさまよう」と書き記した。
同じ理由で「ロシアのヴェネツィア」(あるいは「トヴェリのヴェネツィア」)と呼ばれているのがヴィシニー・ヴォロチョーク市だ。この街にはロシアでも特に古い人工水路網、ヴィシネヴォロツカヤ水路がある。サンクトペテルブルクとヴォルガ川の間の水運を容易にするため、18世紀初めに作られた。このため街の中心には、もちろんサンクトペテルブルクほどの数ではないが、かつて水運に使われていた水路がある。
ヤルタの風景
Legion Media19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヤルタは「ロシアのニース」と呼ばれ、クリミアの南岸全体は「ロシアのリヴィエラ」と呼ばれていた。当時クリミアはロシアのボヘミアンや貴族エリート、芸術家、作家に人気の保養地だった。ゴーリキー、ツヴェターエワ、ブルガーコフ、クプリーンはよくここを訪れて滞在し、チェーホフやヴォローシンはクリミアに別荘を持っていた。ちなみにニースとヤルタは公式の姉妹都市だ。この合意は1960年に締結された。
イワノヴォの繊維工場にて
Vladimir Smirnov/TASSイワノヴォはロシア最大の繊維工業都市の一つとして、「ロシアのマンチェスター」と呼ばれる。17世紀にはすでに初期の繊維工場が作られていた。当初の街の異名は「赤いマンチェスター」で、ソビエト時代初期に登場した。イワノヴォはロシア第3のプロレタリアの都と考えられていた。1905年の革命の際、ここで最初の労働者代表ソビエトが誕生したからだ。この時、イワノヴォの労働者は国内で初めて、自分たちの権利を代表・保護するための組織を創設したのである。
マンチェスターの異名を持つのは世界でイワノヴォだけではない。例えばタンペレは「フィンランドのマンチェスター」、ウッジは「ポーランドのマンチェスター」と呼ばれる。その他にも、ヨーロッパには英国の街に倣って「マンチェスター」と呼ばれている繊維工業都市がいくつかある。
チェレポヴェツの風景、1840年
Wladimir Kusnetzow Archive/Russia in photo「有名な街チェレポヴェツ、要するに北のアテネ。ここで学ぶため、ノヴゴロド県とその隣接県のさまざまな場所から人が送られてくる」と1894年にロシアの経済学者アンドレイ・スボーチンは綴っている。実際、商人で船主のイワン・アンドレエヴィチ・ミリューチンが街を治めていた時代には、チェレポヴェツはこう呼ばれていた。
町人出身の商売の天才として、自身と家族に貴族の地位をもたらしたミリューチンは、学校に行ったことはなく、生涯独学だった。おそらくこのためか、彼は教育を最優先の必要事項と考えていた。彼が街を治めた時代、チェレポヴェツには7つの男子学校・女子学校が開かれ、公共図書館や博物館、本屋、印刷所が作られた。当時チェレポヴェツは「北のアテネ」だけでなく「ロシアのオクスフォード」とも呼ばれていた。
モスクワの赤の広場にて
Legion Media「モスクワは第三のローマである」という言葉をロシア人は学校で習う。プスコフの救世主エレアザル修道院の老修道士フィロフェイはモスクワ大公ワシリー3世に宛てた書簡の中でこう述べ、モスクワがローマとコンスタンティノープル、つまりそれまでのキリスト教の二大中心地の後継者であるという説の基礎を築いた。ちなみにフィロフェイの言葉の正確な引用は「二つのローマが倒れ、第三のローマは立っている。第四はなかろう」である。このモスクワ第三ローマ説は16世紀のモスクワ大公らとその後のツァーリらの権力のイデオロギー基盤の一つとなった。つまり、彼らこそがローマ皇帝とビザンツ皇帝の後継者であり、正教会の庇護者であると考えたのだ。
サマーラのジグリョフスコエ・ビール工場
Kirill Kukhmar/TASSサマーラは19世紀後半に「ロシアのシカゴ」と呼ばれるようになった。街にオレンブルク鉄道が通った1877年以降、工業が凄まじい発展を見せたからだ。
サマーラはアジアからヨーロッパへ向かう陸路、航路、鉄道の結節点にある。街では大規模な穀物貿易が行われ、周辺に油田が開かれた。サマーラ港は大量の貨物を受け入れたり送り出したりしていた。そのためサマーラには実業家やあらゆる犯罪者が集まってきた。この点でもシカゴによく似ていた。
なお、サマーラはヴォルガ川の湾曲部にあるため風が非常にきつく、この点でも「風の街」と呼ばれるシカゴに似ている。
トリヤッチのアフトヴァース(自動車メーカー)の本社
Yakov Knyazev/TASS「ロシアのデトロイト」と「ロシアのシカゴ」は、実際のデトロイトとシカゴよりもずっと近いところにある。サマーラからトリヤッチまでの道のりは100キロメートル以下だ。トリヤッチが「ロシアのデトロイト」と呼ばれるのは、もちろん自動車工場があるためだ。まさにここにアフトヴァースがある。ワシリー・タチシチェフが1737年にスタヴロポリとして築いた街が1964年にトリヤッチと改称されたのは、同年8月にクリミアで休暇中に死去したイタリア人共産主義者パルミーロ・トリアッティを記念してのことだった。
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