1980~1990年代にかけて、ソ連全土の思いがけない場所に特殊な「映画館」が出現した。住宅、地階、学校の体育館、鉄道駅、時にはバスや列車や客船や飛行機の中まで、場所を選ばず営業したが、備え付けられていたのは映画用プロジェクターではなく、ごく普通の小型テレビと、ビデオデッキだった。「ビデオサロン」と通称されたこのような場所で「上映」されていたのは、非合法に複製された外国映画のVHSだった。翻訳と全ての吹き替えを1人だけで行っていたのが特徴である。
画質も音質も劣悪だったが、ビデオサロンの人気は絶大だった。一般のソ連市民にとって、人気の外国映画を目にする機会は他に無かったのだから、当然である。フェリーニの『8 1/2』から『ゴッドファーザー』まで、『死霊のはらわた』からシュワルツェネッガーやスタローンのアクション映画まで、上映された作品群は幅広い。
小規模ビジネスとしてのビデオサロン
最初期のビデオサロンは、ビデオライブラリー(ビデオテープをレンタル可能だった)内で合法的に開業していた。ビデオサロンの第1号は1985年、モスクワのアルバート通りにある元映画館の建物内にオープンした。30人収容の客席の他、3~4人が入れる個室が用意されており、家族連れや友人同士で利用できた。後には郊外型バスを改造した移動ビデオサロンタイプのLiAZ-5917も製造された。
しかし、公認のビデオライブラリーやビデオサロンの人気は低かった。当時はまだ家庭用ビデオデッキは極めて稀な贅沢品。しかも公認のライブラリーやサロンでレンタルできるのは、TV放送や映画館でも見られるようなソ連映画ばかりだった。
事態が動いたのはペレストロイカ以降、1987年に個人営業が部分的に合法化されてからである。ビデオサロンの開業に必要なのは椅子が数十脚とテレビ、高価な資産はビデオデッキだけとあって、小規模事業にはうってつけだった。質の低さと高い「チケット代」にも関わらず需要は極めて高く、ほんの数か月で元手が回収できた。ビデオサロンのチケットはモスクワからウラジオストクまで基本的に均一で、おおむね1ルーブル。映画館のチケットが10~50コペイカの時代である。だが映画館では、西側のアクションもホラーも、エロスもコメディも見られない。
鼻に洗濯バサミ?
アメリカの禁酒法の時代と同様、巨大な需要はたちまち闇市場を誕生させた。外国産の最新ビデオはすぐにソ連に持ち込まれ、ヤミ翻訳家がすぐに翻訳し、大量のコピーがビデオサロンに納品されていく。吹き替え音質のあまりの悪さに、「声質からKGBに特定されないよう、鼻を洗濯バサミで挟んだ状態で吹き替えを行っている」という噂が信じられた。
1人で全キャストの吹き替えを行うという、止むを得ない形で生まれた吹き替え形式は、やがてそれ自体が独自の文化になった。ビデオサロン時代の翻訳・吹き替え師たちの中でも、ユーリー・セルビンやアンドレイ・ガヴリロフといった大物たちは今でも、ファンの依頼を受けて映画の翻訳・吹き替えを行っている。彼らの吹き替えが愛されるのは、ノスタルジーや、聞きなれた声質もそうだが、上質な翻訳も理由として大きい。彼らによってロシア語の日用語に加えられた語彙は多いのだ。特に目立つのは、あまり品の良くない婉曲語法だろう。アンドレイ・ガヴリロフ吹き替え版のクライム・コメディ『ブラッド&コンクリート』(1991年)で使用されたフレーズ「Ублюдок, мать твою」 («You motherf**ker»)は流行してミームとなったほどである。
また、翻訳&吹き替えは映画批評の分野でも貢献した。例えば、ロシアを代表する映画祭キュレーターのアレクセイ・メドヴェージェフも、翻訳&吹き替えからキャリアをスタートさせた1人である。
人気作の数々
ソ連時代のビデオサロンで最も高い人気を誇った映画のラインナップは、西側の人気ランキングとおおむね一致する。『ゴッドファーザー』、『エルム街の悪夢』、ジェームズ・キャメロンの『ターミネーター』と『ターミネーター2』、同じくキャメロンの『エイリアン2』、リドリー・スコットの『エイリアン』などなど。しかし中には、ソ連でのみヒットしたと思われる作品もあった。低予算ホラーコメディ『ゾンビ・チャンネル』(The Video Dead、1987年)は、アメリカでは映画館で上演されずビデオでのみ公開された作品だった。ところがソ連では、『死霊のはらわた』といったホラーの名作古典などと並ぶ知名度だったのである。
スティーヴ・グッテンバーグ主演のコメディ『ポリスアカデミー』や、アーノルド・シュワルツェネッガー主演のアクション『コマンド―』はアメリカでも大人気だが、旧ソ連圏における人気は本国のそれを軽く凌駕するほど絶大だ。後年、ロシアの人気俳優ミハイル・ポレチェンコフは『コマンド―』のリメイク作品『コマンド―R』(День Д)を監督として製作したほどだ。
1990年代初頭にビデオデッキは急激に価格が下がり、どこの家庭でも見られるようになった。こうしてビデオサロンは、レンタルビデオにその座を譲って消えていったのである。