ドミトリー・メンデレーエフの博士論文「アルコールと水分の混合」(1865年)は、もともとはウォッカとは何の関係もなかった。この化学者はアルコールと水分を同量混ぜ合わせた時に総容量が減ずる理由を明らかにしようとしていた。では、なぜ彼がこのロシアの有名な飲み物の発明に一役買っていたと信じられているのだろうか?
オックスフォード大学のアカデミックドレスを着ているメンデレーエフ
Sputnikロシアの偉大な科学者であるドミトリー・メンデレーエフは「元素周期表」(『メンデレーエフの周期表』と言ったほうがなじみ深いかもしれないが)を作成した事で世界的に知られている。
彼はその規則を発見し、その当時知られていたすべての元素を配列した表をつくり、その化学的、物理的な性質を明示し、それぞれの元素の関連性を分かりやすくした。今でも、科学者たちはその周期表を自分たちの研究に利用しているが、この表はそれほど複雑ではなく、明確であるため学校現場でも使われている。
しかしながら、それ以前、彼は博士論文のテーマを選ぶとき、誰にも明らかにされていなかった現象を自分自身で研究することを決意したのである。
アルコールと水を同量混ぜ合わせた時に、どうして総量が元々の量よりも少なくなるのか誰も分からなかった。簡単に説明すると、メンデレーエフはアルコールと水の分子が相互に作用し、アルコール分子間のスペースが水の分子によって満たされることを発見した。化学に言うとこの現象は「収縮」と呼ばれる。これが原因で混ぜ合わせた後の量がもともとも量の和よりも少なくなるのである。
簡単に言えば、メンデレーエフはウォッカの適正な製造方法の科学的研究に巻き込まれてしまったのだ。しかしながら、彼の伝記作家によると、彼は辛口の赤ワイン以外のアルコールは一切口にせず、よくこう言っていたそうだ。「わたしが酒の味を知っているのはただ化学者であるからだ。それは他の毒物と同じくらいだ」。
ニコライ・ヤロシェーンコ『事務所の中のメンデレーエフ』1886年
Museum of Dmitry Mendeleev/Public Domainロシアでウォッカが広まったのは大体14世紀の頃だ。今日まで、どの歴史家もウォッカの発明された正確な時期を示すことは出来ていない。それは、「パンのワイン」、ポルガール、ゴレルカ、ペンニクなどと呼ばれており、どこの家庭でも作られていた自家製酒であったのだ。しかし、問題だったのは、ありとあらゆるものがウォッカと呼ばれていたことであった。
1894年になって、当局は、ウォッカの製造を厳しい管理下において、新たに専売品にすることを決定した。しかし、ウォッカはアルコールと水を混ぜ合わせてつくられるので、正しい混合率はどうなのかが問題となった。
伝統的に、ウォッカはアルコール50%、水50%の比率で混ぜ合わされ、その結果アルコール濃度は41~42%となったのだ。実際にはこの比率による製造はあまり守られておらず、それによって出来るウォッカのアルコール濃度はまったくばらばらであった。
しかし、ウォッカ愛好家たちは、飲んだ人に与える影響から考えれば、ベストな比率は40%であると結論付けた。
しかし、これをどうやって達成するば良いのだろうか?と、そこにメンデレーエフが現れるのだ。ちょうど40%濃度のウォッカをつくるために、製造業者はメンデレーエフの発見を利用したのである。ある量の液体を混ぜ合わせるのではなく、材料の重さに注目したのだ。こうすることによって、収縮現象による混乱は免れることが出来た。そして、この混合方法でできたウォッカは、「モスコフスカヤ・スペシャル・ウォッカ」として特許を取得した。
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