1971年8月1日、雨の海の南東端。アポロ15号のデイヴィッド・スコット船長が、停車した月面探査機の隣、小さめのクレーターの塵で覆われた地表にアルミ製の像を立てた。この瞬間、月は宇宙で最も大きな展示場になった。
月に設置された「斃(たお)れし宇宙飛行士」という作品
NASA「斃(たお)れし宇宙飛行士」と名付けられた、仰向けに寝た人物の像は、今なお月面唯一のインスタレーションだ。高さわずか9センチメートルの像は、性別や人種の特徴を持たない。制作したのはベルギー人画家ポール・ヴァン・ヘイドンクで、デイヴィッド・スコットがこれを宇宙服のポケットに入れて運び、冷たい月の大地に置いたのだった。その隣に彼は8人の米国人と6人のソ連人の名が刻まれた札を立てた。宇宙開発に多大な貢献をし、その後命を落としてしまった宇宙飛行士たちの名だ。
米国人として名を連ねたのはセオドア・フリーマン、チャールズ・バセット、エリオット・シー、ガス・グリソム、ロジャー・チャフィー、エドワード・ホワイト、エドワード・ギヴンズ、クリフトン・ウィリアムズだった。ソ連人としては誰の名があったのだろうか。
ウラジーミル・コマロフ
Vasily Malyshev/Sputnik彼は宇宙飛行で最初に事故死した人物だ。ウラジーミル・コマロフはソユーズ1号の船長で、1967年4月に宇宙に飛び立った。宇宙で初めて2機の宇宙船をドッキングするという画期的な任務を行うことになっていた(彼の直後にソユーズ2号が打ち上げられるはずだった)。しかし、打ち上げ当初から事が計画通りに運ばなかった。
まず、太陽光パネルのうち一枚が開かなかった。船を太陽の方へ向ける指示が通らず、短波通信機が故障した。任務は失敗で、引き返す必要があるのは明らかだった。
致命的な故障が起こったのは着陸の最終段階だった。パラシュートの紐が絡まり、ソユーズ1号の着陸機は秒速約60メートルの速さで地面に衝突、爆発した。設計者らはソユーズの仕上げが不十分で、宇宙飛行士を乗せる段階ではなかったと認めている。試験用の3機の無人機はいずれも何らかの不具合を起こしていたからだ。
ユーリー・ガガーリン
Vladislav Kivrin/Sputnikユーリー・ガガーリンは人類初の宇宙飛行士だ。彼の1961年4月12日の伝説的な宇宙飛行は苦しく困難なものだった(このことは国家プロパガンダで隠ぺいされていた)が、全人類の疑いない勝利の瞬間だった。
その後ガガーリンが再び宇宙へ行くことはなかった。彼は宇宙飛行士訓練センターの副所長となり、ソ連の宇宙飛行士チームの指揮官となった。1966年、彼はコマロフのバックアップ役に任命された。ソ連宇宙プログラムの父セルゲイ・コロリョフは、実はソユーズ1号の主要操縦士の席をガガーリンに約束していたことが知られている。しかし、コロリョフの死によってこの計画は変わった。結果ソユーズ1号に乗ったコマロフは悲劇的な死を遂げた。
ガガーリンはその2年後の1968年、MiG-15UTIで訓練飛行を行っている際に事故死した。ガガーリンの死の原因については諸説ある。宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフが唱えた説では、事故は、ガガーリンの乗った飛行機が近くを通過したジェット戦闘機の飛行機雲に突っ込んだ後に起こったという。別の説では、飛行機が気象観測気球と衝突し、ガガーリンと教官のウラジーミル・セリョーギンは機体を制御できずに亡くなってしまったという。
パーヴェル・ベリャーエフ
Lev Nosov/Sputnik人類初の船外活動が可能となったのはベリャーエフの働きによるものだった。1965年3月、彼は第2操縦士のアレクセイ・レオーノフとともに宇宙に飛び立った。ベリャーエフが船長で、レオーノフは船外活動の任務を負っていた。
宇宙で予定外の出来事がいくつか起こった。まずレオーノフの宇宙服が膨らんでしまい、しばらく宇宙船に戻れなかった。次に、任務の終盤で宇宙船の制御システムが故障した。これにより、自動着陸が不可能となった。ベリャーエフは手動で船の向きを制御せねばならなかったが、これは有人宇宙飛行ではまだ誰も成し遂げていないことだった。船長の巧みな操縦技術により着陸は成功し、2人とも無傷だった。
ベリャーエフが亡くなったのは宇宙飛行中でも訓練中でもなく、1970年の外科手術の後だった。死因は化膿性腹膜炎による中毒だ。
(左から)ヴィクトル・パツァーエフ、ウラジスラフ・ヴォルコフ、ゲオルギー・ドブロヴォリスキー
Alexander Mokletsov/Sputnikウラジーミル・コマロフの死の4年後、3人の宇宙飛行士、ゲオルギー・ドブロヴォリスキー、ヴィクトル・パツァーエフ、ウラジスラフ・ヴォルコフが宇宙に飛び立った。1971年6月、彼らは世界で初めて宇宙船と宇宙ステーション・サリュート1号のドッキングを成功させた。そして帰還の指示を受けた。
コマロフの場合とは異なり、彼らの任務は問題なく進んでいた。すべて順調だったが、着陸段階で異常が起こった。高度150キロメートルで、宇宙飛行士らとの通信が突然途絶えたのだ。それでも、彼らを乗せた着陸機は計画通り降下を続けていた。着陸機は大気圏に入り、予定の場所に着陸した。しかし、救助隊が到着すると、船室内で3人の宇宙飛行士が亡くなっているのが見つかった。
その後の調査で、高度150キロメートルのところで、船室内の気圧を制御する換気弁が開いていたことが分かった。通常、換気弁は高度150キロメートルではなく、高度4キロメートルで開くものだった。乗員は空気の漏れを止めようとしたが、40秒後には気圧が下がり、宇宙飛行士らは意識を失ってしまった。彼らの死はソ連の宇宙開発における悲劇の一つであり、同時に最後の事故でもあった。1971年以降、ソ連およびロシアの宇宙飛行士が飛行任務中に亡くなったことはない。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。