ロシアに舞踏会を持ち込んだのは、さまざまな西欧のものをロシアで広めたピョートル大帝だ。1718年、ピョートル大帝は貴族の舞踏会の原型となった「アサンブレイ」なるものを創始するという特別な勅令を出した。
この「アサンブレイ」にはすぐに行列ができたわけではない。多くの貴族がそうした娯楽は品がないと考えたこと、また強制的なダンスと大量の飲酒が健康に深刻な負担を与えたことがその理由だ。しかし参加者たちは次第にそれが気に入るようになった。ロシア国民をヨーロッパ化しようと懸命だったピョートル大帝は自ら模範となり、エカテリーナとともに素晴らしいダンスを披露した。
当初、この「アサンブレイ」では吹奏楽団が演奏し、ダンスの種類にも大した違いはなかった。しかし次第に弦楽オーケストラが人気を博するようになり、流行りのダンスもたとえばメヌエットからポロネーズへといった風に変化するようになった。18世紀の舞踏会の開始はかなり早く、夕方4時か5時に始まり、ゲストは10時ごろには家路についた。