ミルクキッチンは20世紀初頭にサンクトペテルブルクで誕生したが、それが文字通りすべての村に普及したのはソ連時代のことだった。 現在のロシアにはそのような国のシステムはなく、ミルクキッチンがどこにでもあるわけではない。しかし、国内の多くの地域では依然として無料の乳製品のセットや金銭的補償を受け取ることができる。
最初のミルクキッチンは1901年にサンクトペテルブルク市立の児童保護施設で行われた。その施設には孤児だけでなく、私生児や母親を亡くした乳児(1歳になると家族の元に戻れる)も保護されていた。 当時の乳児、特に未熟児の極めて高い死亡率を下げるために、児童保護施設では追加の間食が提供された。
最初は母乳の出る女性からさく乳されたミルクが子供たちに与えられていたが、徐々に普通の牛乳が与えられるようになった。
その後少し経った1904年には、粉ミルクを調製するステーションが開設され、そこから薬局に粉ミルクが配布されるようになり、医師からの処方箋を持つ母親が受け取ることができた。このシステムは「一滴のミルク」と呼ばれた。
1912年モスクワの孤児院に「ミルクルーム」が開設された。そこでは毎日2000本以上の牛乳瓶が用意され、1916年には最大で4000本の牛乳瓶が用意されるまでになったが、それでも国内で稼働している「ミルクルーム」は約40か所程度であり、もちろんその数はとても少なかった。そして1917年の革命後、乳製品の軽食の提供が国レベルで積極的に実践され始めた。
ソ連初期には政府は、大人や子供、特に乳児の栄養失調と闘っていた。ミルクキッチンは児童保護施設(革命後、この国には多くの孤児がいた)や病院でも実施され始めた。 子どもたちは国から牛乳、ケフィア、カッテージチーズを受け取った。
第二次世界大戦中のレニングラード包囲中、子供たちは年齢に関係なく診療所のミルクキッチンに登録され、そこで牛乳、カーシャ、粉ミルクを受け取ることができた。 第二次世界大戦後、ミルクキッチンは全土に広がった。
1966年、ソ連保健省は新生児用のミルクキッチンの実施を承認した。当初、無料の乳製品は子供の多い家庭にのみ提供されていたが、その後1歳未満のすべての子供が無料で受け取ることができるようになった。
ミルクキッチンで配布される製品は販売されておらず、すべてがそこで調理され、医師からの処方箋を持つ人に配布されていた。
その処方箋は毎月医師から受け取る必要があった。 ミルクキッチンは午前7時から11時までしか開いていなかった。乳製品工場から直接運ばれた製品がそこで配られていた。賞味期限は1日か2日と非常に短かった。子供用の乳製品に保存料を使用することは許可されていなかったからだ。牛乳とケフィアはガラス瓶で提供され、翌日返却する必要があった。
現在、ミルクキッチンはすべての地域にあるわけではない。ロシアの法律には「ミルクキッチン」という概念はなく、妊婦、授乳中の母親、および3歳未満の子供への特別な分配所での乳製品の配布は各地域で独自の方法で施行されている。
モスクワには250カ所以上の「乳製品分配所」がある。さまざまなメーカーの粉ミルク、果物のピューレ、カーシャ、ジュースを配布している。子供用(3歳まで、子供が多い家族の場合は7歳まで)、妊婦や授乳中の母親向けのセットがある。たとえば、母親用のセットにはビタミン剤、乳幼児用には粉ミルク、1歳から3歳までの子供にはカッテージチーズとケフィアがセットに加えられている。 乳製品を定期的に受け取るには、医師の診断書を1回取得するだけでよく、その後は毎月乳製品をオンラインで注文できる。1か月分のセットの重さは約10kgである。
バシキリアとニジニ・ノヴゴロドでは、低所得世帯のみが「ミルクキッチン」を利用することができる。チュメニでは金銭的な補償を受け取れる。モスクワ州にもミルクキッチンはないが、給付金(月額最大1000ルーブル、または1650円*2023年11月の為替)を申請することができる。
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