ソ連時代に建設された「理想的な」コミューン都市(写真特集)

Vladislav Mikosha/MAMM/MDF
 これらのアパートは短期間で労働者のための住宅問題を解決するだけでなく、新たなプロレタリア生活の模範とならねばならなかった。

ノヴォシビルスクの設計企画

 1930年代、ソ連が産業化政策を推し進め、ソ連全土で工場の建設を開始したとき、小さな町や村から大量の労働者が都市に押し寄せた。古い地区では居住のための場所が不足し、大規模な建設事業などのために大都市にやってきて人々はテントや地下に掘った穴など、「手製の住居」に住まなければならなかった。そこで、住宅はもちろん、必要なインフラを建設する必要があった。

ノヴォクズネツクの最初の住宅、1934年

 こうした新たな地区は、ソツゴロド(社会都市)と呼ばれ、短期間で数百万人の人々の住宅を、当時のイデオロギー的な課題を遂行しながら、保障しなければならなかった。それまで、個人の所有というものに慣れていた人々は、こうして国家から住宅や社会福祉を保障された。しかも家具から娯楽にいたるまで、その条件はすべての人々にとってほぼ同じであった。

外国人の設計者たち、エルンスト・マイは左から5人目、ニジニ・タギルにて、1934年

 最初の社会都市は、外国の専門家の設計に基づいて建設された。1930年から1933年にかけて、ソ連政府はドイツとオーストリアの建築家や都市計画家17人を招いた。このグループを率いたのは、大規模公営住宅団地を手がけたエルンスト・マイであった。エルンスト・マイはフランクフルト・アム・マインで、住宅と公共施設が一体になった多機能住宅を建設した。

マイに建設されたフランクフルトの地域(上)、マグニトゴルスクのソツゴロド(下)

 マイのグループはソ連の20以上のソツゴロドを設計した。そのほとんどはウラルとシベリア(ノヴォクズネツク、マグニトゴルスク、ノヴォシビルスクなど)に作られ、都市計画政策に新たな視点をもたらした。

現在まで残っているノヴォシビルスクのソツゴロド

 地区には工場の名前が付けられた。大都市では複数の社会都市あるいは社会村が作られた。たとえば、カザンには、アヴィアストロイ(航空機製造)、アヴィアコンビナート(航空コンビナート)、カズマシストロイ(カザン機械製造)という社会都市が、またスターリングラードには、化学者、造船業者、トラクター工場労働者のための社会都市が生まれた。

労働者のための授業(上)、地域労働者会館のチェス・サークル(下)

 これらの社会都市と他の地区との大きな違いは、地区の未来が明確に計画されていたことであった。社会都市での生活は集団的なものになると想定された。労働者らは、昼間は一緒に働き、夜には一緒に休暇をとる。洗濯や食事の準備といった日常の問題は、公共サービスが行うものとされていた。

ノヴォクズネツクの風景(上)、ソツゴロド(社会都市)の幼稚園(下)

 社会都市は、低層住宅と事務所、必要な商店、食堂、クリーニング、散策のため、そして居住空間を目で見て区切るための大小のグリーンゾーンから成っていた。概して、ドイツの建築家らは外の騒音を防ぎ、窓の埃を少なくするため、通りに向かってケーキを並べるように住宅を建てた。また通りは、街の中心部に向かって、子午線状に伸びていた。このような都市建設をストローチナヤと呼んだ。

マグニトゴルスクのコミューン都市のアパートにて

 現代の人々にとってはこのような住宅はあまり魅力的ではないかもしれないが、当時、これは大躍進であった。共同住宅の家や部屋はかなり倹しいものであったが、その中には、たとえばバスルームなど、当時、数少ない人にしか手が届かなかった近代的な設備が整っていた。シベリア南部の産業都市ノヴォクズネツクでは、部屋の中に、マイのグループのメンバーだったオーストリアの建築家マルガレーテ・シュッテ=リホツキーが設計した「フランクフルト式キッチン」が作られた。これは調理作業を大きく簡素化することができ、世界的な革命を起こした人間工学的なキッチンセットであった。ただし、部屋の中に家族がゆっくりするための場所は作られていなかった。自由な時間は、集団で過ごすものとされていたからである。

ノヴォシビルスクのソツゴロドの建設作業、1934年

 多くの社会都市では、個々の部屋に分かれたアパートではなく、寮や共同住宅が多く作られた。それは集団生活についてのユートピア的な理想により適したものだったからである。しかし、まもなく、ソ連のすべての人々がいつも一緒にときを過ごしたいとは思っておらず、個人の空間や快適さを求めていることが判明したのである。ソ連の標準では、ひとりあたりのスペースは9平米しかなかった。

マグニトゴルスクのソツゴロド地区

 1930年代半ば以降は、ソ連の専門家らが社会都市の設計を行うようになった。新たなアパートは大きな家と広い通りで設計された。また高層住宅が作られるようになり、「スターリン様式」風の出窓や開廊、彫刻などのついた7階建て、9階建てのアパートが現れるようになった。大祖国戦争後には、倒壊した住宅を再建しなければならず、ソ連の建築家らは、すべての家庭に個別の住宅を与えるという目的を遂行するため、「無駄を省いた」大々的なパネル住宅の建設を始めた。

コミューン都市が建設されたニジニ・ノヴゴロドのアフトザヴォーツキー地区

 現在、これらの社会都市はベッドタウンとなり、さまざまな職業の人々が住んでいる。ここに住むのに、工場で働く必要はない。いくつかの都市では、この歴史的地区は街の見どころともなっており、エクスカーションが行われている。

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