強制収容所でのクリスマスと新年:過酷な条件下でいかに祝ったのか?

ロシア・ビヨンド, Gleb Panfilov/"Rossiya 1" TV Channel, 2021, TASS
 スターリン時代の強制収容所のように、最恐の時代と状況においてさえ、祝いの時と場所は見いだされた。

 無神論を掲げるソ連政府は、正教会のクリスマス(降誕祭)を禁止したが、間もなく人々がやはり冬の祝日を必要としていることに気付いた。そこで、政権は別の祭日を「考え出した」。1936年に、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンは、新年を大々的に祝う新たな慣習を導入した。

禁じられたクリスマス 

 「スターリン時代の強制収容所(グラーグ)の囚人たちの生活は、重労働、屈辱、苦痛、空腹、睡眠不足が延々と続く絶望的な日々だったが、そんな中にも、ごく稀に楽しい日々があった。今日と同じく、最も愛され、待望された休日はクリスマスと新年だった」。グラーグ歴史博物館の上級研究員タチアナ・ポリャンスカヤはこう述べる。

 1936 年にはすでに 100 万人以上が強制収容所にいた。ソビエト式の新年は、まだ国民の祝日として根付いておらず、収容所では主にクリスマスを祝っていた。もちろん秘密裏にだ。宗教的な祭日を祝うことを含め、収容所の規則を破れば、厳しく罰せられる可能性があった。

 しばしば「情報提供者」がこうした規則違反について密告したので、ちょっとした不注意のために、深刻な結果を招きかねなかった。軽い罰でも、祝日に用いた品々や飾りを破壊され、最悪の場合には、「犯罪者」は懲戒房(営倉)入りとなる可能性があった。だから、 すべては恐怖と危険を省みずに行わねばならなかった。

 囚人たちは12月24日に祝った(現代ロシアのように1月7日ではなく。ユリウス暦の12月24日はグレゴリオ暦で1月7日にあたる)。この日、収容所の労働時間は、信者の感情を損ない、祝日にさせないために、わざと増やされることがよくあった。しかし囚人たちは、この日を記念して祝日を実現し、楽しい思い出を残すために尽力した。

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クリスマスツリーと収容所でのご馳走

 お祝いのご馳走は、かなり前もって準備する必要があった――時には秋のうちから。食事は控えめだった。誰もが親類縁者の小包からなにがしかの食品、とくに長期保存できる品を残しておこうとした。たとえば、ドライフルーツ、小麦粉、砂糖、干し魚などだ。 

 これらの品はすべて慎重に隠されていた。「ふつうは、庭の雪の吹きだまりに隠された。収容所内は隅々まで念入りに捜索されたからだ」。1950 年代に収容所で 6 年間過ごしたヴェーラ・プロホロワはこう振り返る

 何夜かにわたって、バラックを暖めていたペチカでご馳走が作られた。蜂蜜とドライフルーツ入りのお粥、ドライポテト、さらにはピロシキまで。

 プロホロワの回想によると、収容所の当局から、ボロボロになったシーツと引き換えに新しいシーツをもらえることがあり、それを即席のテーブルクロスにしたという。

 囚人たちはまた、トウヒの枝をバラックに持ち込もうとした。クリスマス・イヴに、タイガの伐採現場で働いていた人々は、小さなクリスマスツリーまたは枝を囚人服の下に隠し、密かに持ち歩いた。

 いよいよ祝日となり、夜間、バラックが閉ざされると、皆は食卓につき、祈った。信仰をもたない共産主義者も、食卓に招かれた。大抵の場合、これらの無神論者も加わった。

 囚人たちは回想する――宗教も民族もさまざまな人々が一緒に祝い、クリスマスの夜に、彼らは非常な精神的一体感を感じていた。彼らは、この夜を記念すべく福音書を読み、さまざまな言語でクリスマスソングを歌った。

 「クリスマスと大晦日には、魔法が強制収容所のバラックを支配したかのようだった。共通の高揚感、より良きものへの希望、人生の喜びなどによって人々が結びついた。さまざまな民族、出身地の人々が、『政治犯』も『刑事犯』も、お互いに親密になったかのようだった」。タチアナ・ポリャンスカヤは述べる。

正月と「娑婆」への葉書

 クリスマスとは対照的に、強制収容所の幹部は、新年のお祝いには寛容で、囚人に干渉しなかった。最初は、党のインテリと無神論者だけが収容所でこれを祝っていた。しかし、すぐにこの祝日は真に国民的なものになった。何と言っても祝日は祝日であり、暮らしに楽しいことが加わったからだ。

託児所の職員と強制収容所の子供のためのツリー

 1930 年代後半になると、強制収容所の状況はより厳しくなって、パンの配給は貧弱になり、囚人には薄い粥しか与えられなかった。それだけに、人々は、たとえ束の間でも祝日らしい外観をつくり出したく思い、そのあらゆる可能性を追求した。囚人自身が、手に入る材料や手段で新年のツリーの飾りをこしらえ、収容所の子供たちのために贈り物やおもちゃを作った(新年は、主に子供の祝日として認識されていた)。

 強制収容所の囚人の多くは、何とかして「娑婆」にいる近親者を喜ばせようとし、自分の手で新年のカードを描いた。

 たとえば、技術者のアレクセイ・シリンとリュドミラ・ハチャトリアンが自宅に送った数枚のカードが残っている。前者は、「反ソビエト扇動」のためにロシア北方で5年間、後者は、外国人と結婚したために8年間、強制収容所で服役した。

アレクセイ・シリンのカード、アルハンゲリスク州コトラス市から出したもの、1944年
アレクセイ・シリンのカード
アレクセイ・シリンのカード、ヤマロ・ネネツ自治管区のサレハルド市から出したもの、1952年
アレクセイ・シリンのカード、ヤマロ・ネネツ自治管区のサレハルド市から出したもの、1952年
リュドミラ・ハチャトリアンのカード、「新年おめでとう!1954」
リュドミラ・ハチャトリアンのカード、「新年おめでとう!新たな希望おめでとう!1954」

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