女性雑誌は帝政ロシア時代にも出版されていたが、その内容はファッション、上流社会のニュース、手芸、家事などをテーマにしたもので、また新しい文学作品が掲載されており、重要な社会問題についても簡単に触れられていた。しかし、それを読むことができたのは、教育のある限られた女性だけであった。しかしすべてはロマノフ王朝の滅亡と共に変化した。
1917年の革命の後、ボリシェヴィキはより幅広い人々に読み書きを教えることを課題に据え、共産党の管理下にあるマスメディアを作り、プロパガンダ的課題を遂行した。「女性誌に対する指導部の尽力の必要性」に関する個別の勅令が出され、ボリシェヴィキは主婦に対する助言を含む雑誌をなくした。新たな出版物の目的は、「女性労働者と農民女性を共産党のための戦いとソヴィエト建設に参加させる」ことであった。ボリシェヴィキにとって重要だったのは、女性も社会の平等なるメンバーとなり、労働力となることであった。
雑誌のほとんどは革命指導者の妻で、教育省の中の政治・教育委員会を率い、プロパガンダ活動の責任者であったナジェージダ・クルプスカヤがチェックを行った。雑誌には、有名な女性革命家のイネッサ・アルマンド、アレクサンドラ・コロンタイ、レーニンの姉のアンナ・ウリヤノワ=エリザロワ、また最初の教育人民委員だったアナトリー・ルナチャルスキーなどの政治家、レーニンの秘書で新聞「プラウダ」の編集長を務めたウラジーミル・ボンチ=ブルエヴィチなどが登場した。
女性のための雑誌には以下のようなものがあった。
1920年12月刊行
所蔵写真これは政治雑誌であり、共産党女性部門の出版物であった。スターリンによって女性部門が廃止されたまで、1920年から1930年にかけて、比較的少ない数で、2〜3万部のみ発行された。
1928年1月刊行
所蔵写真雑誌の目的は共産党の女性メンバーに政治的な教育を施すことであった。雑誌には、独自にプロパガンダ活動を行う方法、指導者になり、新たな共産党員を養成する方法などが書かれていた。ジャーナリズム史研究家のエレーナ・コロミーツェワ氏によれば、「オルグ問題」、「プロパガンダの問題」、「共産党教育問題」などのコーナーがあり、その見出しは「レーニンの党の成長を促す」、「職場に階層を作る」、「無神論者を育てる」、「指導的活動に向かって断固進む」などであったと例を挙げている。
1929年3月刊行
所蔵写真「女性コミュニスト」では、女性向け出版物のシステムが考案され、その目的(女性の共産主義的教育)が定義づけられ、その対象は個別の出版物を必要とする農民の女性、女性労働者、女性の党活動家と決定づけられた。また「女性コミュニスト」は、そうした雑誌の刊行に関する助言を与え、労働者や農民の中から記事を書く人物を募るよう呼びかけた。
雑誌「赤いシベリア女性」
所蔵写真また地域別に雑誌を作ることが決まり、「赤いシベリア女性」、「北カフカスの女性労働者たち」など、似たような雑誌が数多く出版された。
1923年1月刊行
所蔵写真革命前の1914年にウラジーミル・レーニンは、「女性労働者の利益を守る」ため、女性のための初のプロレタリア雑誌「女性労働者」の発行を発案した。雑誌の発行は帝国警察によって中止されたが、革命後、再開された。雑誌には、「イリイチの助言を遂行すること」や共産党的教育の重要性をテーマにした記事が書かれたが、もっとも重要なテーマは労働に関するものであった。
1927年2月刊行
所蔵写真雑誌には、生産現場のヒロインや女性が就くことができる職業について述べられていた(たとえば、創刊号では、それほど体力を必要としない組立工という職業に目を向けるよう助言が与えられた)。また働きやすい服装に関するアドバイスやハイヒールの害についてなどのテーマも取り上げられた。
雑誌の最重要テーマは、生活における革命であった。女性は男性や家族の「奴隷」から解放され、完全に平等な共産党社会と「偉大なる新たな生活」の建設者になる必要があるとされた。
1935年12月と1936年12月刊行、スターリンが表紙に
所蔵写真1925年、ナジェージダ・クルプスカヤは「女性労働者」に、「知能の発達は、細かい仕事、草木の栽培や野菜の漬け込み作業、汚れたバケツ処理、その他の忌まわしいものによって遅れをとる。こういうものをすべて取り除けば、女性はすばやく前身することができ、自身をまったく自由で幸福だと感じることができる」と綴った。
1917年の発行部数はおよそ3万部となり、それ以降も少しずつ増えていった。そして1941年には、42万5000部、1990年には2300万部にもなった。
1956年8月刊行
所蔵写真しかもこれは、現在まで出版されている数少ない雑誌の一つである。
1929年3月刊行
所蔵写真雑誌「農民女性」は、1922年から2015年まで出版された。しかも発行部数は数百万で、1989年には2100万部となった。雑誌の目的は、「農民女性へのアジテーション、共産主義思想のプロパガンダ、そして農民女性に生活や仕事に必要な知識を与えること」であった。
雑誌には、家事や農業のやり方や子育ての方法、また他の地域の農民女性たちの生活について、あるいはいかにして労働者の生活を楽にするかといったことが書かれていた。さらに、小麦の量を増やすことがいかに重要であり、そのためには何をすべきかが農民女性たちに説かれた。
1935年4月刊行
所蔵写真「農民女性」では、女性をテーマにした文学も掲載された。しかも、マクシム・ゴーリキーやアレクサンドル・トヴァルドフスキーなどのソ連の優れた作家たちが特別に雑誌のために作品を執筆した。また詩の形式で、昔の決まりごとや新しい規律を破る人たちを面白おかしく綴った「笑いのページ」もあった。
1929年10月刊行
所蔵写真レーニンの死後、1925年から1929年にかけて、「農民女性」によく似た「女性の雇われ労働者」という雑誌が出版された。農村または森林で働く女性たちの間で読まれた。雑誌の定期購読者は年々増加し、発行部数も1万から4万まで増加した。
1928年5月刊行
所蔵写真雑誌は期間限定のものとなった。というのも、「雇われ労働」という形態自体が、ソ連の初期、新経済政策(ネップ)の時期にしか存在しなかったからである。
1928年3月刊行
所蔵写真雑誌「女性の雇われ労働者」には、女性の労働や社会における女性の役割について掲載された。とりわけ女性は、まず何よりも、家族ではなく、プロレタリアートと共産主義の利益のために奉仕しなければならないとされた。
イラスト「労働契約書」、1925年
所蔵写真また雑誌には、子どもの世話をする上でのアドバイス、また性交渉に関する衛生上および病気予防の基礎知識などが書かれていた。雑誌は読み書きのあまりできない女性労働者向けで、梅毒とは何か、または密造酒がいかに有害かなどといったことも説明されていた。
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