ロシアのワーレンキ(フェルト製の長靴)にどこかよく似ているブーツを履いていたのは古代にアルタイ山脈に住んでいた人々である。このことは20年以上前、アルタイのウコク高原で行われた発掘調査で分かったことである。この地域には、氷河によって紀元前4世紀から3世紀のイラン系部族の墓が保存されていたのである。現在この地にはモンゴル、中国、ロシア、カザフスタンの国境が引かれているが、当時は夏の牧草地、冬季限定の道路、遊牧民の通る道しかなかった。
フェルトは中央アジアのすべての民族―とりわけチュルク系、モンゴル系の部族の間でよく使われている素材であった。フェルトで洋服、カーペット、銃器ケース、装飾品、そして靴が作られた。古代ルーシ時代、靴は革、菩提樹の樹皮、毛皮で作られていたが、ルーシの人々がフェルトの靴について知ったのは、13世紀にモンゴル・タタールのくびきのときである。しかし、その後もワーレンキが大々的に人気となった訳ではなかった。ワーレンキを作ることができたのはかなり裕福な人だけだったのである。
「ロシア風」ワーレンキが登場したのは18世紀の末、ニジェゴロド県の古儀式派が縫い目のないフェルトづくりの技術を開発したときである。ワーレンキの製造が産業的に行われるようになり、値段を下げることができた。そして1851年にロンドンで「万国博覧会」が開催された後、ワーレンキはロシアのものというイメージが定着した。そして、その後、ワーレンキは、ウィーン万博(1873年)、シカゴ万博(1893年)、パリ万博(1900年)でも出品された。
*ロシアの本物のヴァーレンキはこのように作られている(動画)
ロシアの伝統衣装のシンボルであるココーシニクのルーツと考えられているものが3つある。ある一説では、ココーシニクはヴィザンチンから伝えられたといわれている。ヴィザンチンのティアラは、ロシアがヴィザンチンの宗教・文化を積極的に取り入れたとき、ロシア大公の娘らにとても気に入られた。また歴史研究家らは、10世紀のノヴゴロドの資料に櫛の形やプレート形のココーシニクについて書かれているとしている。また別の説では、ロシア人以前に、ココーシニクはモンゴルやモルドヴァの部族が被っていたものとされている。
しかし、どこから来たものかははっきりしないものの、この頭飾りはルーシの人々の間でたちまち定着した。これはスラヴの人々は髪を大切にしていたからである。スラヴの神話では、髪を結わないことは恐ろしいことであり、髪を整えていないと不幸になるとも言われた。そこで、ココーシニクはあらゆる社会層の女性の間で取り入れられるようになった。しかし、ピョートル1世の時代になり、この頭飾りは少しずつ廃れていった。1701年にピョートル1世は、貴族はヨーロッパ風のドレスを着るようにとの勅令を出し、ココーシニクは商人や農民たちの間では使われ続けた。
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有名なグジェリ焼きの青と白の模様がロシアで描かれるようになったのはピョートル1世の時代である。コバルトブルーの柄は「オランダ風」に描かれた。なぜなら、ピョートルはヨーロッパのものを次々に取り入れたが、オランダ生まれの青いデルフト焼きもその一つだったからである。
モスクワ郊外のグジェリ村はその頃すでに陶芸の中心地であり、最初のロシア製陶器の誕生の地であった。しかし、ピョートルの時代、陶器は黄土色、エメラルド、茶色、ボルドーなど鮮やかな色合いで描かれていた。また描かれたのは、「ルボーク」と呼ばれる民衆版画風の生活風景であった。青いデルフト焼き風の陶器が焼かれるようになったのは19世紀半ばであった。当時の流行に合わせた(中国の陶器を含め)一方で、職人たちは、単色で描かれたグジェリの方がヨーロッパ市場でもより人気があることに気がついた。何層にも重ねられた青色は、グジェリの大きな特徴となり、世界中で知られるようになった。
「きゅうり」を思わせるペイズリー柄は非常に古くから伝わる模様である。現在、イラクとイランがある地域に1000年代の初頭に存在した古代サーサーン朝(第二のペルシア帝国)で生まれたと考えられている。この模様は貿易路を通じてインド、東洋、アフリカへと広まり、17世紀には英国の入植者らによってヨーロッパにも広がった。そしてヨーロッパでこの模様は「ペイズリー柄」と呼ばれるようになった。そして「ペイズリー」はその1世紀後にロシアに伝わり、もともと人気だった植物柄などと調和が取れるものとして人気となった。この「おしゃれな柄」はパヴロヴォポサードのプラトークにも大々的に取り入れられるようになり、おそらく現在では世界でもっとも有名なロシアのプラトークとして知られている。
こちらも実はウコク高原がルーツの品。同じ発掘調査が行われた際に、紀元前4世紀のフェルトの兜が発見された。上の部分が尖っていて、鳥の頭を模した人形が飾られ、耳あてがついていた。のちにこのタイプの帽子が中央アジアの民族―モンゴル人、キルギス人、バシキール人、ブリャート人などの間で広まった。このロシアのウシャンカ帽の原型となっているのは、マラハイと呼ばれる先の尖ったモンゴルの帽子であると考えられている。
以降、帽子は何度も改良され、今でも時代遅れとは考えられていない。1930年代、ウシャンカは赤軍の冬の制服の一部になった。そしてモンゴル人たちが、減速した矢もこのような暖かい防護用の帽子を貫くことはできないとしてマラハイを評価したとしたら、ロシアの農民、兵士、そして皇女たち(たとえば、ピョートル1世の母親はウシャンカを3つ持っていた)は厳しいロシアの冬には欠かせないものだとして重宝がった。
*ウシャンカの歴史について詳しくはこちらからどうぞ。
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