エテリ・トゥトベリーゼ―フィギュアスケートのすべてを変えたコーチ

Vladimir Pesnya/Sputnik
 オクラホマから北京へ:今、フィギュアスケート界でもっとも大きな影響力を持つ女性の物語

 2020年のISUが選ぶ最高のコーチに選ばれ、教え子たちに次々とチャンピオンのタイトルを獲得させているエテリ・トゥトベリーゼは、不屈の闘士である。スケート選手としては、ケガによって引退を余儀なくされたが、その後コーチに転身、ついに勝利者となったのである。

 「その朝、顔を洗うため下に降りて、時計を見ると9時4分でした。すると爆発があり、ものすごい轟音がしたかと思うと、恐ろしい静寂が訪れました。それから人間のものとは思えないような叫び声が聞こえました。どうやって外に出たのか覚えていません。一人でした。どうやら長い時間をかけてなんとか脱出できたようでした。壁は割れていました。子どもたちは皆、別の場所に移されていました。また爆弾が落ちたと皆が叫んでいました。皆、慌てて走っていましたが、わたしはそこに立ったまま呆然としていました。スリッパを履き、タオルと歯ブラシを手に持っていました。消防員が駆け寄ってきて、わたしの手をつかみ、駆け出しました。彼が崩壊した建物を確認している間、半日、わたしは夢遊病患者のように彼の後を歩いていました。わたしたちのアイスショーのグループのロシア人は、アメリカ人の家族に引き取られました。わたしとパートナーのコーリャ・アプテルは、その消防員に引き取られました。その後、テロの被害者に対し、1,200ドルが支払われました。そのお金で動かない中古車を買って、消防員がそれを修理してくれ、それでシンシナティに行きました」。

オクラホマシティでのテロ事件、1995年

 1995年、オクラホマシティでテロ事件が起きたとき、エテリ・トゥトベリーゼは、まだなんのタイトルもない、20歳の無名のフィギュアスケート選手であった。彼女は背中のケガと祖国ソ連邦の崩壊の後、選手としてのキャリアを終えなければならなくなった。そしてその年、トゥトベリーゼはロシアのアイスショーに参加するためアメリカに向かった。しかし、手続きの遅延により、契約が破棄され、アイスショーのメンバーたちは全員、寮の床で眠り、慈善機関が運営する食堂で食事をしなければならない状況に置かれることになった。テロで爆破された建物から交差点を渡ったところにあったYMCAの寮で彼女はテロに遭遇したのである。

 エテリとアイスショーのパートナーであるコーリャが、テロの被害者として受け取ったお金で買った「中古車」は、エテリがアメリカでの最初の数年をなんとか生き抜くのを助けるものとなった。トゥトベリーゼがコーチとしての技術を学ぶことになるサン・アントニオに落ち着くまで、彼女は4年にわたり、ショーの公演を行った。彼女は、スポーツ選手だけでなう、ただお祭り好きな人や退屈している高齢者などに指導をも行った。その時、彼女はまだ、自分に主要な革命者としての役割が与えられていることを知らなかったのである。


プーチンのロシアで抱いたアメリカの夢

 「わたしが4歳のとき、グルジアから親戚がやってきたことがありました。誰かが父に、子どもは何人かと尋ねました。すると父は、うちには息子が一人いると答えたのです。わたしが父の肩を叩いて、パパ、うちには5人子どもがいるでしょと言うと、父は向こうへ行ってろ!と言いました。後になってわたしがなぜあんな風に言ったのかと訊くと、父はトゥトベリーゼという苗字を持つのは息子だけで、家系を継ぐのは息子だ、女の子たちは子どもの数には入らないと言うんです。それでわたしはそれ以来ずっと、女の子も数に入るのだということを証明したいと思っていたのです」。

 彼女はそれを実際に証明することになる。自らの決意で、幼い頃からトレーニングを続け、自らの決意でアメリカに行き、そこで幸せな暮らしを手に入れた。しかし、穏やかで落ち着いた生活は彼女にとってはもの足りず、彼女はロシアに戻り、ゼロから人生をやり直すことに決めた。

 多くのことが人間関係やコネに左右されるロシアだが、彼女はアメリカに住んでいる間に重要な交友関係は途切れてしまっており、帰ってきてすぐには自分に適した仕事を見つけることはできなかった。そこでエテリは、屋外の簡易スケート場で、健康のためだけにすべっているようなスケートグループのトレーニングをするしかなかった。ほぼ10年、エテリは、新生ロシアでの生活に慣れるため、努力した。彼女は消滅しようとしていたソ連から夢のような世界であるアメリカに移り住み、そしてロシアという新たな国家が生まれてまもない厳しい時期に帰国したのである。

 2008年、長年の試練を経た後、エテリは「フルスターリヌィ」と呼ばれるモスクワのアイスリンクにたどり着いた。これが、のちに世界中に知られることとなるアイスリンクである。そしてコーチ2シーズン目には、教え子であるポリーナ・シェレペンがジュニアの大会で勝利をあげ、エテリのコーチとしての成功が認めらることとなった。その後は、ユリア・リプニツカヤが素晴らしい勝利を続けて収め、2014年のソチオリンピックの団体戦で金メダルを獲得した。外国のファンたちの間で、リプニツカヤは「赤いコートの少女」として記憶に残っている。映画「シンドラーのリスト」の音楽に乗せた演技は、スティーブン・スピルバーグからも賞賛を受けた。これについてトゥトベリーゼは記者団を前に、「その言葉はオリンピックの金メダルを同じくらいの意味を持つ」と述べた。ユリア・リプニツカヤが団体戦で勝利を収めた後、リプニツカヤは大きな話題をさらい、もっとも人気のオリンピック選手となった。リプニツカヤはアメリカの「タイム誌」の表紙を飾り、また初めて、プレスはエテリにも目を向けるようになった。

「タイム誌」の表紙に取り上げられたリプニツカヤ

 リプニツカヤに続いて登場したのが、エフゲニア・メドベージェワである。2シーズン、すべての競技大会で連勝したが、2018年の平昌五輪では、同じチームメイトで、トゥトベリーゼの教え子であるアリーナ・ザギトワにわずかに及ばず銀メダルとなった。

 次のシーズン、ザギトワは世界選手権を制し、もっとも多いタイトルを獲得した選手となった。そんな中、ジュニアの大会では、エテリが育てる新たな世代が大活躍を見せていた。アレクサンドラ・トルソワ、アンナ・シェルバコワ、アリョーナ・コストルナヤといった選手たちは世界に対し、「勝つためには、難易度をあげなければならない」という事実を突きつけたのである。4回転、3回転半(トリプルアクセル)、かつては選ばれた選手だけが見せていた特権的な技が、今や不可欠な要素となった。こうした回転数の多いジャンプは、非公式に「ウルトラC」と呼ばれている。


トゥトベリーゼ式、勝利の科学

 シングルマザーで、お金もなく、なんの保護も受けていないエテリは、いかにして、わずか10年で伝説的なソ連のコーチ陣と肩を並べることができるようになったのだろうか。エテリの成功の秘訣は、それぞれの教え子に等しいチャンスを与え、苦しい練習をさせつつ、教え子同士で競争させることだという。本質的に、トゥトベリーゼの哲学は、最近の理想であるインクルージョンとは真逆のものであり、実質的にはスヴォロフの勝利の科学である。

 「厳しい訓練をすれば、楽に戦える」というロシアの大元帥スヴォロフの格言は、「フルスターリヌィ」の規則をよく表現している。競争相手より頭2つ分傑出すれば、誰にも負けないというものだ。「個別の計画」はない。女子選手たちは皆、毎日、自分のプログラムを(ときに1日何度も)演技し、どんなに疲れても、トレーニングを重ねる。スケーティング、振り付け、ストレッチ、室内トレーニング・・・。どんなチャンピオンにも特権などない。トゥトベリーゼは皆に向かって言う。「愛する皆さん、メダルを手にするために努力してきたと思いますが、この後も同じやり方でさらに前進していくのです。表彰台から落ちてしまえば、もはや何者でもありません。次にもう一度、台上に上がって証明するまでは。過去のメダルがいくらあっても、それは将来あなたを助けてくれるものではないのです」。トゥトベリーゼの育てた女子選手たちのそれぞれの時代はそう長くはない。しかしそれは成果を生むものである。成人になるまでに、彼女たちはメダルやタイトルだけでなく、スポンサー契約をも手に入れることになる。

 近年、エテリは将来、チャンピオンになるべく選手を3人ずつ育成している。これは表彰台に登れる人の数である。そのため、選手を育てるコンベアーシステムだとも非難されている。しかしトゥトベリーゼの育成法は、一人一人の選手に対する個別のアプローチである。もちろん、選手たちは、同じグループでトレーニングをしていることから、似通った要素があることも否めない(衣装や振り付けの要素など)。しかし、どの選手も、独自のイメージの中で演技している。気品溢れるメドベージェワ、身体能力の高いトルソワ、知的なシェルバコワ、魅力的な反乱者コストルナヤ・・・、その違いははっきりと感じられるものである。

 しかも、彼女の教え子たちの代表作の半分は彼女の個人的なメッセージでもある。メドベージェワの作品「聞こえる/聞こえない」は、抗生物質を摂取した害によって聴力を失ったエテリの娘ディアナをイメージしたものである。またもう1つ、メドベージェワに勝利をもたらしたプログラム「911日」には、オクラホマでエテリ自身が経験したことに対する気持ちが込められている。またワリエワの「イン・メモリアム」は、シェルバコワの「エレジーおお過ぎ去りし日の甘美な春よ」と同様、大切な人を失うことをテーマにした感動的なプログラムである。エテリ自身、201811月に母親を悲劇的な形で失っている。エテリが教え子たちとともに平昌入りしていたときに、病に襲われたのである。

フィギュア界のナポレオンもいつか負ける日がくる? 

アリーナ・ザギトワ、エテリ・トゥトベリーゼ、エフゲニア・メドベージェワ、2018年平昌オリンピックにて

 一方、トゥトベリーゼをあまり好まないファンたちも多い。彼女は傲慢で、自惚れな雰囲気があり、プレスと親しくせず、批判に対してはトゲのある物言いをし、教え子が別のコーチの元に移ることに嫉妬心を隠さず、露骨に嫌がる。また彼女の高価なルイ・ヴィトンのコートも話題の的となっている。さらに、指導する選手の幅をますます広げ、女子シングル、男子シングルに加えて、最近ではペアの指導をも行っている。

 コーチ仲間たちは、彼女の成功を冷ややかに受け止めている。というのも、表彰台はトゥトベリーゼ門下生に占領され、結果が出ないコーチやスポーツクラブには資金の援助もなく、また評判もついてこないからである。

 近く、シニアに移行するための年齢制限が引き上げられることで、今の状況を脱することができると考える人もいるが、実際には今の勢力図を変えるものではない。トルソワとシェルバコワは思春期が過ぎても4回転を飛び続けることが可能であることを証明した。芯の強いコストルナヤは18歳でトリプルアクセルを復活させ、ブライアン・オーサーの元からトゥトベリーゼ・チームに再び戻ったメドベージェワは4回転サルコーを成功させるため真剣に取り組む計画だったが、ケガのため、現役続行は不可能となった。

2021年ロシア・フィギュアスケート選手権にてアンナ・シェルバコワとエテリ・トゥトベリーゼ

 しかも、この争いには、ロシアのすべてのトップコーチら、そして外国人コーチらも加わっている。彼らは、トゥトベリーゼの独占状態を崩すことができる唯一の方法は、彼女と同じやり方で戦うことだということを理解した。最近のロシア選手権では18人の出場者のうち10人が「ウルトラC」の要素で勝負している。

 もし明日、突然、何らかの理由でエテリ・トゥトベリーゼという存在がなくなったとしても、この技術の進歩を止めることはできない。革命はすでに始まったのであり、フィギュアスケートの世界はもはやかつてのようなものに戻ることはないのである。

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