1944年1月27日:ソ連軍はレニングラード封鎖をついに解除

Vsevolod Tarasevich
Vsevolod Tarasevich
そのとき、この大事件は、レニングラード(現サンクトペテルブルク)では、324発の礼砲で祝われた。

 「その時、そこにいた誰もが歓喜した。文字通り欣喜雀躍し、抱き合い、キスし、『ウラー!』と叫び、感極まって涙したが、また、悲しみで泣いた。犠牲があまりにも大きかったからだ。どれほどの苦しみを味わったことか!決して忘れないだろう!」。市民エリザヴェータ・ドブロワさんは、この日のことを振り返る。

 1941年9月、ドイツ軍に封鎖された当初から、ソ連軍(赤軍)は、この恐るべき包囲網を突破しようと試みてきた。しかし、これらの攻撃作戦は、失敗せざるを得なかった。人員、資材、戦闘経験のいずれも不十分だったからだ。

 ソ連軍が、狭い陸路を突破して包囲された都市に入れたのは、1943年1月になってからだ。そのようやく1年後、ソ連軍は、ついにレニングラードの封鎖の解除に成功した。

 ソ連軍のレニングラード・ノヴゴロド戦略攻勢作戦は、1944年1月14日に始まった。攻撃は、フィンランド湾岸の孤立したオラニエンバウム橋頭堡と都市自体から行われた。

 これと同時に、ノヴゴロド地区でも、ソ連軍が攻勢を開始した。ソ連軍は、ここでドイツ軍を食い止め、ドイツ軍司令部が予備軍を北へ移動できないようにする狙いだった。

 最初の数日間、ソ連軍は、文字通りドイツ軍の防衛を「食い破ろうとしていた」が、予備軍の投入後は、事態はより順調に進んだ。1月20日にノヴゴロドが、21日には、重要拠点である鉄道駅「ムガ」が解放された。

 1944年1月22日、プーシキン市のドイツ軍砲兵によるレニングラード砲撃は、この日が最後となった。その2日後、ドイツ軍は、プーシキン市も放棄せざるを得なくなった。

 同月末までに、ソ連軍はドイツ軍を、レニングラードから70~100キロメートル後退させ、同市とソ連本国との主要な交通路を解放した。1月27日、レニングラード戦線の軍事評議会は、敵の封鎖からの完全な解放を発表した。ただし、包囲の一翼をなしていた、カレリア地峡のフィンランド軍は、そこでは考慮されていなかった。

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