第二次世界大戦中に「銃後」の人々はいかに暮らし働いていたか(写真特集)

Julius Jääskeläinen (CC BY 2.0)
第二次世界大戦中、ソ連の銃後の人々は、赤軍に何も足りないものがないように、身を粉にして働いた。その一方で、余暇には、劇場やコンサートに足を運んだり、動物園を訪れたり、オペラを聴いたりと、ふだんの生活を楽しんだ。

「コムソモール」(共産党の青年団)の一団が、装甲列車の建造のために資金を寄付する。モスクワ、1941年。
モスクワの工場の1つで、迫撃砲弾が製造されている。1941年。
前線用に防寒具を集める。1941年。
包囲下のレニングラード(現サンクトペテルブルク)。プーシキン劇場のコンサートホールで、ピアニスト、ウラジーミル・サフロニツキーがコンサートを行う。1941年。
「ピオネール」(共産党の少年団)が、薪を割っている。1942年。

鉄道を清掃する。1942年。
包囲下のレニングラード(現サンクトペテルブルク)。小児病院で新年を祝う。1942年1月1日。
工場「赤いチュム」の労働者たちが、ホッキョクギツネ(北極狐)の毛皮を洗浄する。アナディリ市、1942年。
レニングラードATI工場の支部で、前線用の82mm 大隊迫撃砲用の砲弾の生産が始まった。スヴェルドロフスク州アスベスト市、1942年。
ウラルの工場の1つで、労働者たちが前線用の対空砲を組み立てる。1942年。

ニジニ・タギルの第183ウラル戦車工場(現在はウラルヴァゴンザヴォード)で、コンベヤー上で 戦車「T-34」を組立てる。1942年。
クイビシェフ市(現サマーラ市)で、ウラジーミル・ユロフスキーのバレエ『赤い帆』の初演が行われた。バレエは、アレクサンドル・グリーンの同名の小説に基づく。1942年。
ポドモスコヴナヤ鉱山に潜る前の鉱山労働者。この鉱山は、トゥーラ州の解放後に再建された。1943年。
タンボフ州のミハイル・カリーニン記念ソフホーズ(集団農場)で、ジャガイモを収穫する。1943年。
女子生徒たちが、前線用の防寒着を縫う。1943年。
ウラルの工場の労働者たちが、戦車を軍に納入する準備をしている。1943年。
キーロフ劇場(現マリインスキー劇場)の歌手たちが、オペラ『イワン・スサーニン』の開演前に、新聞「レニングラーツカヤ・プラウダ」の社説を読んでいる。1944年。
モスクワ動物園。ヒグマの檻の前にいる子供たち。1944年。
セルゲイ・エイゼンシュテイン監督によるソ連の歴史映画『イワン雷帝』が撮影されている。アルマ・アタ、1944年。
モスクワ地下鉄のアルバーツコ=ポクローフスカヤ線が建設されている。1944年。

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