ロモノーソフは1711年11月19日、現在のアルハンゲリスク州の農家で生まれた。先祖代々、海で漁をしており、父も漁をしていた裕福な農民であった。父は優しい人だったが、「極めて無学に育てられた人」だったという。本人はそうではなかった。子供時代から積極的に学び、村で複数の科学書を読み、覚えた。
科学を追い求めて
村の生活は徐々にがまんできないものとなっていった。自分の継母と言い争ったり、父に無理やり結婚させられそうになったりした。1730年、魚を積んだ荷馬車でモスクワに行き、スラヴ・ギリシャ・ラテン・アカデミーに入学。農家の子供は入学を許されなかったため、「貴族の息子」だと言っていた。
読み書きと数学をよく知っていたため、アカデミーでは貴族であると簡単に信じてもらえた。ロモノーソフは1745年、本当の貴族、そして化学教授になることができた。
「万能人間」
ロモノーソフは勉強を長期間継続。モスクワ、キエフ、サンクトペテルブルク、ドイツのマールブルクとフライベルクで学び、哲学から冶金までの多くの学科を習得した。その後の活動でも、このような多様性、同時にたくさんのことに取り組むスタイルを変えることはなかった。
大帝と称されたエカテリーナ2世
ロモノーソフの興味や活動の範囲はとても広く、また「万能人間」と言われ、レオナルド・ダ・ヴィンチを引き合いにだされることが多かった。ガラスづくりの技術を完成させ、物理および化学の理論を構築し(本人は化学が一番自分に向いていると思っていた)、天文学、地理学を研究し、文法書、歴史論文を執筆し、頌詩を書き、詩を翻訳し、モザイク・パネルをつくった。
これ以外にも、モスクワ大学創設プロジェクトを作成した。1755年に開校したこの大学にはロモノーソフの名がついており、ロシア最高の大学の一校と考えられている。
当時としては先進的
ロモノーソフの活動内容に触れた地質学教授ワシリー・ドクチャエフは、ロモノーソフの死から136年後の1901年、驚きとともにこう話した。
「私が公開審査を受け、博士号の取得につながった理論を、ロモノーソフははるか昔に自分の仕事で提唱していたし、広範であった」
ロモノーソフが当時すでに、とても進んでいたことを示す他の例もある。望遠鏡で宇宙を観測し、1761年、世界で初めて金星の大気を発見した。科学アカデミーの書類から判断すると、これより前の1754年には、2組のプロペラのついた垂直離着陸ヘリコプターの模型を開発していた。ロモノーソフの熱の微粒子運動論は、その100年以上後に原子を球状回転粒子と想像するであろうことを、予見するものであった。
北部の荒々しい気性
とはいえ、当時の人の証言によれば、ロモノーソフは引きこもって静かに研究しているタイプではなかったという。モスクワ大学のグリゴリー・プルツコフ准教授のロモノーソフに関する論文には、科学アカデミーで作業をしている時、ドイツ人の圧力に猛烈に対抗したと記されている。
自分の影響力のある支援者で、女帝エリザヴェータの愛人だったイワン・シュヴァロフとの口喧嘩でも、自分の気性を隠すことはなかった。シュヴァロフはある時、喧嘩が激しくなる中で、「お前を科学アカデミーから追い出してやる!」と言った。するとロモノーソフは、「それはない。アカデミーは私から離れない」と言い返した。
プーシキンが感動
ロモノーソフの死後に生まれた、別の偉大なる詩人アレクサンドル・プーシキンはこう言った。
「ロモノーソフは偉大な人物。ピョートル大帝から女帝エカテリーナ2世までの間で、啓蒙活動に独自の貢献をした唯一の人。国内初の大学を創立した。ロモノーソフ自身が大学であると言う方が正しい」