開発時のコードネームはイワンで、「ツァーリ・ボンバ」の名称は、クレムリンのツァーリ・コロコル(鐘の王様)、ツァーリ・プーシュカ(大砲の王様)にちなんで西側でつけたもの。
ツァーリ・ボンバが炸裂したのは、冷戦が熱い戦争に転化しかねない時期だった。直前の1961年8月には、ベルリンの壁が建設されはじめ、世界は、翌年1962年10月のキューバ危機に向かって、緊張の度合いを高めていた。
ツァーリ・ボンバは、実戦配備されることはなかったが、ソ連の核兵器製造能力を見せつけ、大きな政治的、軍事的意義をもった。
ツァーリ・ボンバは、核分裂―核融合―核分裂という三段階の反応により、100メガトンの威力を実現する多段階水爆だったが、ソ連領内の広範囲に被害がおよぶことを懸念したソ連当局は、威力を半分に抑えることにした。
ツァーリ・ボンバは、特別に改造されたTu-95戦略爆撃機によって運搬されたが、巨大すぎて機内に収納できず、半分機外にはみだしていた。ツァーリ・ボンバは重量27㌧、全長8㍍、直径2㍍という大きさだった。
午前11時32分、ツァーリ・ボンバは、ノヴァヤ・ゼムリャ上空の10500㍍の高度から、パラシュートをつけて投下された。高度4000㍍に達した時点で爆発。致命的な火傷を負う熱線の範囲は、半径58キロメートルに及んだとみられる。米国の観測によれば、キノコ雲は64キロメートルの高さに達した。
1963年に核兵器保有国(アメリカ、ソ連、英国)は、大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約「部分的核実験禁止条約」を結び、地下核実験だけを行うことに同意した。
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