古儀式派の起源:いかにロシア版プロテスタント=抗議者が出現したか

ニジニ・ノヴゴロドの古儀式派、2004年

ニジニ・ノヴゴロドの古儀式派、2004年

Nikolai Moshkov/TASS
 17世紀のロシアで、独自の宗教改革が行われた。しかし、ヨーロッパのそれとは異なり、ツァーリの同意を得て、中央の教会当局によって「上から」断行されている。それに抗議する者たちとなったのは、「古いやり方で」信仰することを望んでいた人々だった。

 ロシアにおける新旧の信仰の根本的な違いは、いったい何なのか?これは、誰にも納得のいくような説明はいまだになされていないだろう。何本の指で十字を切るか、礼拝でどのようにお辞儀をするか、「ハレルヤ」を何回唱えるか。これらが現在、「通常の」正教徒と古儀式派(分離派)を分かつわずかな「違い」だろう。これについては後で詳しく述べる。

 半世紀前、ロシア正教会はついに古儀式派を認め、現在は、古儀式派との再統一を主張している。しかし、17世紀に総主教ニコン(1605~1681年)によって上から行われた教会改革は、社会に巨大な衝撃を与え、その余波は今日にまで及んでいる。

 「その時、背教者ニコンは、信仰と教会の掟を曲げた」。長司祭で、古儀式派の最初の指導者となったアヴァクームは、こう書いている。信仰を「曲げた」つまり歪曲したというニコンは、総主教であり、教会の礼拝の形式を改革した。それは、ロシア正教の深刻極まる分裂の発端となった。しかし、順序だてて語っていこう。 

ニコンとは何者か

総主教ニコン

 ニコンは、現在のニジニ・ノヴゴロド州で生まれた。後に総主教にまでのぼるが、当初は司祭で、結婚して家族をもっていた。しかし、子供たちが亡くなり、悲しみから彼は修道院に行き、後にそこで修道院長にまでなる。

 新任の修道院長は、ツァーリに謁見するのが慣例だった。そしてニコンは、ロマノフ王朝の第二代ツァーリ、アレクセイ・ミハイロヴィチに良い印象を与えた。ツァーリは、ニコンを自分の身近に置くように命じ、モスクワの修道院の一つで高い地位に任じた。

 ツァーリはニコンを、「熱烈なる信仰者たち」と呼ばれるグループに加えさえした。彼らは「敬虔派(神を愛する者たち)」と自称してもいた。彼らの目標は、聖職者と世俗の人々、両方の道徳を高めることだった。グループの会合は定期的に開かれ、ニコンはツァーリとしばしば会った。

 1652年に総主教ヨシフが亡くなると、アレクセイ・ミハイロヴィチは、ニコンにこの地位に就くよう提案した。教会の事柄に干渉しないという約束をツァーリからとりつけると、ニコンは改革を実行し始める。 

ニコンの改革とは

1.聖典の統一

 ニコンの最大の懸念の一つは祈祷書だった。彼は、まだ修道士だったころから、ロシア中のさまざまな教会で仕えてきたが、聖典、祈祷書は異なり、翻訳、解釈も異なった。要するに、ロシア全土で礼拝がばらばらに行われていることが判明した。

 ニコンが熱烈に願ったのは、これらすべての書を統一することだった。彼は、ビザンツ(東ローマ帝国)で使われた、ギリシャ語の聖典を範としたいと考えた。古代ロシアは、ビザンツから正教を導入したからだ。したがって、『聖書』、祈祷書など教会の書物の改訂が改革の基礎となった。

アレクセイ・キフシェンコ作「奉神礼書を改訂する、総主教ニーコン」

 これまで慣れ親しまれてきた表現にも、さまざまな修正が加えられた。たとえば、キリストの名に1文字が追加され、「イスス」(Исус)の代わりに「イイスス」(Иисус)と書き、発音するようになった。

2. また、礼拝の仕方も改められた。目立った改変の1つは、これまでは二本の指で切っていた十字を以後は三本の指で切ること。聖堂内での礼拝は膝をつかず腰までにとどめること。

3.十字行――正教の祝日にイコンを掲げて、教会の周りを行進する儀式――は、従来と方向を逆にする。つまり、時計回り、あるいは太陽の進む方向(北→東→南→西)に沿ってではなく、それと反対にする。

4.礼拝に際し「ハレルヤ」を二度ではなく三度繰り返すこと。 

5. 礼拝に必要な特別なパンの数も変わった。今や、奉神礼(カトリックの典礼に相当)では、「プロスフォラ」(聖パン)が7つではなく、5つだけ用いられる。 

正教会の分裂(ラスコール)

 高位の聖職者の中には、この改革に不満な者も多かった。ツァーリは会議の招集を命じ、これは「1654年モスクワ会議」として歴史に残ることとなった。しかし、解決されたのは教典の改訂の問題だけだった。ニコンは、ツァーリの支持をとりつけつつ、改革を続けた。これに抵抗し、「古い儀式に則って」礼拝することを望んだ人々は「分離派」(ラスコーリニキ)と言われるようになり、後には「古儀式派」と呼ばれた。

 聖職者のもう一つの主要な会議である1666~1667年の「モスクワ大会議」では、コンスタンティノープル総主教パイシウスも出席し、最終的に「分離派」を反逆者として認め、罰することを決定した。

 多くの古儀式派がシベリア流刑となり、その中には、冒頭で引用した長司祭アヴァクームも含まれていた。彼は、古儀式派の熱烈な指導者であり、改革に激しく反対した。しかし当時は、ツァーリが彼をより深刻な罰からかばっていた。アヴァクームは、ニコンを異端かつ背教者とした。さらにアヴァクームは、1654~1655年にロシアでペストが流行したのはニコンのせいだと非難する。神が彼の罪に罰を与えた、と彼は信じていた。

 古儀式派に対する迫害は厳しく、ニコンに説教をした司祭は舌を切られることさえあった。その後、アヴァクームは逮捕され、同志たちとともに小屋で生きたまま焼かれた。これは古儀式派の「洗練された」処刑の一つだった。

ピョートル・ミャソエドフ作「火刑に処されるアヴァクーム」

 古儀式派の世俗の影響力ある人物も捕らえられた。そうした場面が、ワシリー・スリコフの名画『大貴族夫人モロゾワ』に見事に描かれている。ロシア中世から近世の皇帝や公に次ぐ名門貴族層、「大貴族」の夫人が、この絵では足かせをはめられている。しかし彼女は、信仰を棄てることなく、従来のやり方で、2本の指で十字を切っている。

ワシリー・スリコフ作「大貴族夫人モロゾワ」

 いくつかの修道院も、改革に抵抗した。白海のソロヴェツキー修道院は、最も長く「持ちこたえた」。ツァーリ軍が、罰としてその財産を奪うためにやって来ると、修道士たちは武器をとり迎え撃った。その結果、修道院は、事実上数年間(1668~1676年)にわたって包囲下に置かれた。 

セルゲイ・ミロラドヴィチ「1666年のソロヴェツキー修道院蜂起」

ニコンの「退場」

 残虐行為の大半は、ニコンの「退場」後に起きている。この総主教とツァーリの関係は、徐々に悪化していった。ニコンは、修道院の土地とそこから得られる収入の多くを国庫に移す目論みが気に入らなかった。

 また、古儀式派には、影響力ある人物が多数いたが、そのなかには、ツァーリと総主教を反目に導いた者もいた。さらには、ニコン自身も、あまりに傲慢で、歴史家たちによれば、教会の権力を国家権力よりも上に置こうとしたという。

 ずっと後――ニコンの死後のことだが――エカチェリーナ2世(1729~1796年)は、ニコンを厳しく非難している。彼は正教の「教皇」となってツァーリを自分に従わせようとしていた、と女帝は考えていた。「三本指で十字を切ること(*ニコンの改革のこと)は、呪い、拷問、死刑などにより、ギリシャ人たちが我々に押し付けたものだ」と彼女は述べた。

 結局のところ、ニコンはモスクワを離れ、腹を立てて、自分の領分に去った。モスクワ郊外のイストラにある新エルサレム修道院だ。これは、エルサレムを範とし、それに倣って彼が建立したもの。ツァーリはこれに不満で、先に述べた1666~1667年の「モスクワ大会議」において、ニコンは裁判にかけられた。

せるげい・ミロラドビッチ作「総主教ニコンの裁判」

 ニコンは、多くの犯罪で有罪とされ、すべての位階を剥奪された。今や一介の修道士として、彼は、ロシア北部の修道院、すなわちフェラポントフ、次いでキリロ・ベロゼルスキーに送られ、そこで厳しい生活条件に置かれた。ツァーリ、アレクセイ・ミハイロヴィチの死後、すでに老いて病身のニコンは、新エルサレム修道院への帰還を許されたが、その途次、自らの「ゴルゴタ」に着く前に亡くなった。

もっと読む:

このウェブサイトはクッキーを使用している。詳細は こちらを クリックしてください。

クッキーを受け入れる