もちろん、この年の主な出来事は、第一次世界大戦の勃発だ。1914年7月19日、ドイツはロシア帝国に対して宣戦布告した(*オーストリアがセルビアに宣戦布告すると、ロシアは総動員を命じた。ドイツはロシアに最後通牒を突き付けて動員解除を要求、それが拒否されると、ロシアに宣戦布告した)。
帝都サンクトペテルブルクの人々は、開戦を報ずる新聞を読んだ。
1914年7月20日、皇帝ニコライ2世は、国民に対し演説した。冬宮のバルコニーから、彼は、ロシアの参戦に関する布告を発した。
この日、宮殿広場には、大群衆が集まった。
戦争の知らせは、帝国臣民を驚愕させるとともに、愛国心の高揚を呼び起こした(プラカードには「ロシアとスラヴ人に勝利あれ」と書かれている)。
サンクトペテルブルクで、群衆が愛国心を表わした。写真は、ネフスキー大通り。
正教徒であるセルビア人への同情が高まる。写真では、群衆が、馬車上のセルビア特使を迎えている。
軍人と義勇兵の志願者が、徴募の場所に行列をつくった。
動員された兵士は直ちに前線へ向かった。
新兵に敬意を表して送り出す。
間もなく、多数の将兵が勇気と武勲を称えられて勲章を授与された。
反ドイツ感情が非常に高まったため、1914年8月にニコライ2世は、サンクトペテルブルクをロシア風にペトログラードと改名するよう命じた。新聞「取引所新報」(ビルジェヴィエ・ノーヴォスチ」はこう書いた――「我々は、サンクトペテルブルクで眠りにつき、ペトログラードで目が覚めた」。
ロシア全体が、恐怖と将来の不透明感に襲われた。ウラル山麓のミアス市では、人々が集まって、対ドイツ戦勝祈願を行った。
第一次世界大戦は新しいテクノロジーの戦争でもあった。ロシア軍にはすでに初の航空隊があった。写真では、航空隊の将校が「パイロット気球」(気象観測気球)を上げて、風速と気圧を測定しようとしている。
戦争が始まった当時、後の革命の指導者ウラジーミル・レーニンは、オーストリア・ハンガリーに滞在しており、スパイ容疑で逮捕された。しかし、1914年8月6日に、彼は刑務所から釈放された。間もなく彼は、この「帝国主義の」戦争を非難する。後にロシアを戦争から抜け出させ、(たとえ不利な条件であっても)講和を主導するのは彼だ。
1914年7月、フランス高官がサンクトペテルブルクを訪問した。写真は、戦艦「フランス」の甲板上。レイモン・ポアンカレ大統領、ルネ・ヴィヴィアーニ首相兼外相、ル・ベリー海軍中将が写っている。
ニコライ2世が離宮ツァールスコエ・セローで閲兵式を行う。
こうした状況にもかかわらず、ロシア帝国の国内では、平和な生活も続いていた。写真には、皇帝一家――ニコライ2世、皇后アレクサンドラ、そして子供たちが写っている。息子アレクセイ(座っている)と娘たちだ。左から右へ、マリア、タチアナ、オリガ、アナスタシア。
これは冬の普通の娯楽だ。人々がスケート場に集まる。場所は、サンクトペテルブルクのタヴリーダ宮殿の庭園。
こちら、サンクトペテルブルクの「マルスの広場」では、本格的なスピードスケート競技会が開かれている。
戦争が始まる直前に、皇帝とロマノフ家の大公たちは、「ベノワ館」の定礎式に参加した。ロシア美術の殿堂「ロシア美術館」の一部となる新館だ。
この頃、ロシア詩の「銀の時代」が大いに活況を呈していた。概して、文化は発展し変化していた。アヴァンギャルド、新人たち…。サンクトペテルブルクの知識層の精華はことごとく文学クラブに集まっていた。
一方、シベリアのハンティ人の漁師は、独自の漁の罠「ギムガ」を編んでいる。
これも第一次大戦前の写真だ。画家イリヤ・レーピンは、自身の邸宅で、かの有名なオペラ歌手フョードル・シャリアピンの肖像画を描いている。
シャリアピンがレーピン邸のスケートリンクで滑る。
21歳のアヴァンギャルド詩人、将来の革命の歌い手ウラジーミル・マヤコフスキー。
美貌のバレリーナ、タマーラ・カルサヴィナが、興行師セルゲイ・ディアギレフによる「バレエ・リュス」(ロシア・バレエ団)の公演を終えてペトログラードに戻る。
1914年春、サンクトペテルブルク・チェストーナメントが開催された。チェス史上最も華々しいイベントの1つだ。写真では、ロシアのチェス選手アレクサンダー・アレーヒンがキューバのホセ・ラウル・カパブランカと対局している。
モスクワの「赤の広場」で新しい消防設備の検査が行われている。
サンクトペテルブルクのポクロフスカヤ広場(現在のツルゲーネフ広場)の賑やかな市場。
女子教育には、以前より注力されるようになった。写真は、サンクトペテルブルクのプレオブラジェンスカヤ女子ギムナジウムの生徒と教師たち。
郊外の路上で、普通の宴会が行われている。
サンクトペテルブルクの「公共図書館」の閲覧室は満席だ。
地方の病院の包帯所。1年後、作家ミハイル・ブルガーコフは、似たような条件のもとで働くことになり、その有様を後に、短編小説『モルヒネ(若き医師の手記)』で描くことになる(彼は、1914年には赤十字に志願した)。
ハンモックに腰かける夫妻。