1250年代にバトゥによって建てられた。彼は、モンゴル帝国の西方遠征軍の司令官であり、チンギス・カンの長男のジョチの次男だ。14世紀初めには、当時としては広大な36平方キロメートルの面積があった。
民族ごとの地区に分かれていて、ロシア人、キプチャク・ハン国の臣民、チェルケス人、ヴォルガ・ブルガール人、ビザンチン(東ローマ帝国)の臣民などがここに住んでおり、人口は計7万人以上に達した。
ハンの宮殿の内部には金色のタイルが敷き詰められ、ペルシャ語の詩が記されていた。
旧サライの遺跡
Oksana harab (CC BY-SA 3.0)サライ・バトゥの最盛期は半世紀余り続いた。その後、ジョチ・ウルスの第10代ハンであるウズベク・ハン(在位1313~1341年)が、首都をアフトゥバ川を遡って新サライに移した。その結果、旧サライは急速に衰微してしまった。
旧サライの遺跡
Oksana harab (CC BY-SA 3.0)現在では、ここにある「歴史的」建造物は、ロシア映画『黄金のオルド』(金帳)の撮影のために2012年に建てられたセットしかない。今ではそれが観光スポットで「歴史公園」だ。
かつて新サライ(サライ・ベルケ)があったヴォルゴグラード州ツァレフ村近くの記念プレート
DNikon (CC BY-SA 4.0)新首都は、1260年代にジョチ家第5代当主のベルケが建設した可能性があるが、これは推測だ。都市の位置も完全には特定されていない。1395年に同市は、ティムールの軍隊によって破壊され、現在はその場所に野原が広がっている。
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