ロシアにもエルドラドが、つまり「黄金の溢れる地」と呼ばれた、シベリアのマンガゼヤがあった。もっとも、当地の「金」は柔らかかった。17 世紀初頭以来、この都市は、シベリアの毛皮貿易の中心地であり、シベリアの諸部族から税金が徴収される場所でもあった。しかし、マンガゼヤの黄金時代は短かった。
シベリアへの道
マンガゼヤへの海路は、白海沿岸のポモール人(12世紀に白海沿岸に入植したロシア人)の居住地とシベリアとを結んでいた。これは、 16 世紀を通じて発展した重要な交易路だった。北ドヴィナ川の河口から始まり、白海、バレンツ海、カラ海を通り、さらにタズ川に沿ってマンガゼヤに至った。このルートには、ヤマル半島の陸地の部分も含まれていた。
この交易ルートに沿って、「柔らかい金」、つまり毛皮が、シベリアから大量に輸出された。一方、皮革、火薬、塩、鉛、穀物、その他の商品が輸入された。
マンガゼヤは、16 世紀末に設立されたポモール人の交易所から発展した。1603 年に、卸売業の重要な施設である「ゴスチーヌイ・ドヴォール」(屋内市場)がそこに登場した。さらに、マンガゼヤは、ヤサク(現物税)の収税の中心地ともなった。そして、街が豊かになるにつれて、モスクワからの注目度もますます高まっていく。
しかし、ポモール人の住む地域からマンガゼヤまでの海路を綿密に管理するのは無理な話だった。そしてこれは、国庫に関税が支払われない損失を意味した。また、カラ海に外国船が現れ、外国人が貿易を始めて、シベリアへ経済的影響力を拡大していくのでは、という大きな懸念もあった。
シベリアは、貿易・経済の巨大な展望を垣間見せつつあった。まずインドと中国への交易路が開かれつつあった。第二に、シベリアそのものが外国貿易の潜在的な中心地だった。第三に、17世紀初頭には、シベリアの天然資源についてはすでに知られていた。最後に、貿易に携わる者だけでなく、宣教師、スパイや冒険家も、ロシア・ツァーリ国の奥深くに入り込みかねない…。
マンガゼヤの喪失
まさにそのために、1619年にロマノフ王朝の初代ツァーリ、ミハイル・フョードロヴィチは、マンガゼヤ交易路の閉鎖を命じた。ツァーリは、外国商人が海路に沿って国内に侵入することを懸念した。彼らはシベリアの資源に大いに興味をもっていたからだ。
海路の閉鎖によりこの商業都市は徐々に衰微し、1643 年の火災の後は、マンガゼヤは、地図から完全に消えた。すでに商業的意義を失った場所で住民が再建を始めることはなかった。
その後、2世紀半にわたり、マンガゼヤ航路は、学術調査などのみに使われていた。1877 年以来ときおり、このルートで隊商が交易を行おうとしたが、港湾と航行のインフラがなかったため、成功したのは約半数にとどまった。
現在では、マンガゼヤ航路は、北極海航路の一部となっている。砕氷船「アレクサンドル・シビリャコフ号」は、1932 年に初めて北極海航路を 1 回の航行で横断した。つまり、このときに、白海沿岸のアルハンゲリスクからベーリング海峡まで、一気に通過している。