第二次大戦中に赤軍は米英のどんな戦闘機で戦ったか:「マスタング」が供給されなかったわけ

P-63 キングコブラ

P-63 キングコブラ

US Gov
 ソ連に供給された軍用機の多くは旧式であり、空戦ではドイツ製戦闘機の敵ではなかった。そこで、それらの機体は、敵の爆撃機を探索・迎撃する防空連隊に送られた。

 第二次世界大戦中、ソ連は西側の連合国からほぼ1万4千機の戦闘機を軍事援助として供給された。ほぼ1万機がアメリカ人から、約4千機がイギリスから供与されている。

 これらの軍用機の一部は、「戦闘には適さないものを送る」という原則に基づいて、米英から赤軍の空軍に送られたものだ。とはいえ、いくつかの機種については、ソ連軍関係者は、連合国に非常に感謝していた。

ハリケーン

 1941年8月、西側の戦闘機がソ連に初めて到着した。イギリスの「ハリケーン」だ。第二次世界大戦の全期間を通じて、赤軍の空軍は、この機種を合計 3千機以上受け取った。

 ハリケーンは、操縦が容易で、コックピットも広く、パイロットの視界は良好だった。しかし、ハリケーンの長所はそれだけだった。

 1934 年に開発された、このイギリスの戦闘機は、かつてバトル・オブ・ブリテンなどで活躍したが、1941 年末の時点では、もう完全に旧式となっていた。エンジンの信頼性が低く、しかも低出力であり、武装も非常に弱かったため、最新の改良型「メッサーシュミット」とは、対等に戦えなかった。

 8丁の7.7mm機関銃は、あまり役に立たなかった。ドイツ軍は、1942年の初めに、ハリケーンの基地であるヤロスラヴリの飛行場に、辛辣な要求を記したメッセージを投げ込んだほどだった。「ドイツ機の翼の塗装を傷つけないようにしてほしい」

 英国製の機関銃が、ソ連の 20mm ShVAK 機関砲2門と 12.7mm 機関銃2門に換えられたことで、状況は改善された。

 「この飛行機は、“ハリケーン”には程遠い」と、パイロットのイーゴリ・カベロフは書いている。上昇速度は遅いし、急降下もうまくいかない。垂直方向の機動性(*航空機の機動、動き方)?そんなものはないよ!」

 彼の同僚のヴィタリー・クリメノクは、「飛行機じゃなくて、ジャンクだ」と決めつけた。

 とはいえ、このイギリス機は、全体の勝利に貢献した。それは、ソ連にとって戦争の最も困難な時期に登場し、戦闘機の不足が深刻だったときに、ソ連が持ちこたえるのに役立った。赤軍の空軍により進んだ改良型のソ連製「ヤク」と英国製「スピットファイア」が納入され始めると、ハリケーンは、敵の爆撃機と戦う防空部隊にまとめて送られるようになった。

P-40 「ウォーホーク」

 米国製戦闘機のカーチスP-40ウォーホーク(戦争の鷹)は、ソ連に対して、西側の連合国から約2,500機供与された。赤軍の空軍では「ウォーホーク」という名称は定着せず、改良に応じて「トマホーク」または「キティホーク」と呼ばれた。

 すでに 1941 年秋には、P-40 は、モスクワとレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の防衛に参加した。戦闘能力と技術面では、この機体はハリケーンよりも優れていたが、速度と機動性では、ソ連やドイツの戦闘機にかなり劣っていた。

 「鈍重な機体で、機動性も良くない。重武装ではあったが、それも気に入らなかった。操作が簡単ではなかった」。ソ連の​​パイロット、ウラジーミル・ヤストレボフはこう振り返っている。

 しかし、P-40は、非常に堅牢で耐久性が優れていた。弾薬を撃ち尽くした赤軍パイロットが、敵機に体当たりし、その後で飛行場に無事帰還したことが何度もあった。

 東部戦線の「キティホーク」または「トマホーク」は主に空戦ではなく、攻撃機や護衛戦闘機として用いられた。さらに、防空の一翼を良く担った。 

P-51 マスタング

 第二次世界大戦における米国最高の戦闘機、P-51 マスタング(ムスタング)は、ソ連の専門家らに披露するために、1942 年にわずか 10 機だけがソ連に送られた。しかし、ソ連の専門家は、この機体にかなり冷淡だった。高速ではあるが、「アイロンのように」重く、機動性に難があると思われた。

 1944 年に開発された P-51D マスタングは、高高度では比類のない性能を発揮した。しかし、いくつかの理由により、この機体はソ連についに供給されなかった。まず、西部戦線の空戦とは対照的に、東部戦線での空戦は、主に低高度および中高度で行われた。第二に、米国はすでに戦後の米ソ冷戦を予感しており、最先端の兵器を潜在的な敵に渡すことを急がなかった。 

P-39 エアラコブラ

P-39 のそばのソ連のエース、アレクサンドル・ポクルイシキン

 P-39 エアラコブラでは逆の状況となった。高高度では、この米機はもう一つだったが、中低高度では高速と機動性を発揮した。

 その結果、米国は惜しみなく約5千機のP-39をソ連に供給。これは、赤軍空軍における西側の戦闘機中で最大だった。同機は、「自動車」タイプのドアを備え、コックピットの後ろにエンジンを置くという珍しい配置だった。この強力な戦闘機は、航空部隊からハリケーンを駆逐することとなる。

 とはいえ、エアラコブラにも欠陥がないわけではなかった。たとえば、低空で複雑な曲技飛行をすると、簡単に失速し、きりもみ状態に陥ってしまった。

 この機体はミスを許さなかったが、熟練したパイロットの手にかかれば恐るべき武器に変わった。ソ連の多くのエースが P-39 に乗った。グリゴリー・レチカロフは同機で敵を50機、アレクサンドル・ポクルイシキンは48機を、それぞれ単独で撃墜している。

 「私は、エアラコブラの形と、主にその重武装が気に入った」。ポクルイシキンは回想する。「敵機を撃墜できるだけのものを備えていた。37 mm機関砲、2つの大口径(12.7 mm)速射機関銃、および毎分1千発の通常口径(7.62 mm)の機関銃4門…。私は、できるかぎり早く操縦をマスターした。間もなく、この戦闘機が、いわば私の身体と飛行思考の一部になったように感じた」

P-63 キングコブラ

P-63キングコブラ戦闘機を背景にしたソ連とアメリカのパイロットの集合写真

 米国は、赤軍空軍のニーズと東部戦線での空戦の経験を踏まえて、P-63キングコブラを開発した。たとえば、この戦闘機では、エアラコブラのきりもみ状態での失速の問題を解決しようとたが、完全には成功しなかった。

 ソ連は、同機を合計で約 2,400機受領した。しかし、これらは大戦末期に到着し、対独戦には事実上参加しなかった。しかし、極東での戦い(ソ連参戦)には間に合った。

 対日戦では、P-63は爆撃機や偵察機を護衛し、太平洋艦隊の部隊を空から援護し、攻撃機として機能した。

 「これは『ヤク』とはまったく比較にならない」。パイロットのイワン・プロゾルは、キングコブラについてこう語った。「『ヤク』は軽くて機動性に優れるが、これはすごく重くて強い巨体で、戦闘機というより攻撃機を思わせる。さらに、増槽まで吊り下げたら、これはもう…」

P-47 サンダーボルト

 第二次大戦中、ソ連が米国から受領した戦闘機(または戦闘爆撃機) P-47 サンダーボルトは、200 機未満だった。同機は、空戦には事実上参加しなかった。

 「飛行の最初の数分で、私はもう気づいた。これは戦闘機ではない!」。テストパイロットのマルク・ガライは、こう回想している。「安定していて、キャビンは快適で広々としており、具合が良いが、戦闘機ではない。サンダーボルトは、水平面、とくに垂直面での機動性は、満足のいくものではなかった。加速はゆっくりで、重い機体の慣性が影響した。なるほど、サンダーボルトは、急な操作をともなわない、一定のルートに沿った単純な飛行にはとても適していた。だが、それだけでは戦闘機にとって十分でない」

 西部戦線では、P-47 は、攻撃および、爆撃機B-17 フライングフォートレスの護衛に使われた。ソ連では、P-47は、防空連隊に回された。

スピットファイア

 スピットファイアは、第二次大戦中の英空軍のシンボルとなった。独ソ戦(大祖国戦争)が始まった1941 年夏、ソ連は英国に対し、ハリケーンに代えてこちらの戦闘機をソ連に供給するよう要請したが、「同機は輸出を目的としていない」という冷たい返事だった。にもかかわらず、その後、英国は、約 1,200 機のスピットファイアをソ連に送った。

 高速で機動性があり、操縦が容易なスピットファイアMk.Vbは、1943 年の春から夏の空戦でその実力を発揮したが、この時点ではすでにかなり旧式になっていた。クバーニ上空でこの機種に遭遇したドイツのエース、ギュンター・ラルは後にこう記している。「英仏海峡から3千マイルも離れたところで」イギリス機が飛んでいるのを見てびっくりした、と。

 1944 年 2 月以降、この戦闘機のより進んだ改良型、スピットファイア Mk.IX が、ソ連に到着し始めた。上昇速度と武装の点で、ソ連のYak-9UやLa-7を上回り、高高度では優れた能力を発揮した。

 しかし、低高度および中高度では、状況はそれほどバラ色ではなかった。地上付近の速度では、スピットファイアはLa-7より時速100 kmも遅かった。その結果、前線では、同機を使わないことが決まり、大半の機体は防空連隊に回された。

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