いかにして盲目の少年が偉大な数学者になったのか?

歴史
ボリス・エゴロフ
 レフ・ポントリャーギンは自身の障がいに打ち勝つために血の滲むような努力をした。そして彼は世界の科学界に大きな足跡を残し、シベリアの河川移動プロジェクトにも影響を与えた。

 1921年のある不運な日に、ごく普通のソ連の学生だったレフ・ポントリャーギンを悲劇が襲った。修理しようとしていたストーブが彼の腕の中で爆発したのである。そしてそれによりポントリャーギンは完全に失明した。

 レフの父親、セミョーン・アキモヴィチは、その事件の目撃者となり、すぐに健康を害した。彼はてんかん発作を起こすようになり、脳卒中で亡くなった。

 しかしながら、レフ自身はそれで自暴自棄になることはなかった。彼は生き延びただけでなく、世界的な名声を持つ優れた学者になったのである。

人生の選択

 悲劇のあった後の数年は、レフの人生にとってもっとも困難な時期であった。学校生活は続けられないと思ったが、同級生たちが救いの手を伸ばした。クラスメイトたちは教師が黒板に書いた板書を音声で伝え、宿題を手伝った。

 少年の前には困難な問題が突きつけられた。どのような人生を送るか、何をして生きるのかということである。レフはピアノのレッスンに励み、工芸品作りにも取り組んだ。しかし、最終的に彼の心をつかんだのは数学であった。

 学術での成果を上げるためにレフを助けたのは仕立て屋をしていた母親のタチヤナ・アンドレーエヴナである。ポントリャーギンは回想する。「母は大きな自制心と自己献身で、わたしが困難を克服するのを助けてくれました。母は学歴は持っていなかったけれど、学校時代は、授業の準備を手伝ってくれ、授業で使う人文系の教科書だけでなく、彼女にとっては未知であった数学の文献も読んでくれました。しかも数学の本は学校の授業のものよりずっと難しいものだったのです」。

 母親は自分のすべてを息子に捧げ、実質、彼の秘書となった。毎日、数学の方程式が書かれた本を数十ページ、読み上げ、レフはそれを記憶した。

 タチヤナ・アンドレーエヴナにとってもっとも難しかったのは、彼がまだ見たことのない算数の記号をレフに教えることであった。それぞれの記号に、母親は子どもにもわかる特別な表現(端が上に上がったもの、など)を考えた。未来の学者は人生において、点字を使うことは一度もなかった。

 1925年、ポントリャーギンは金メダルで学校を卒業し、モスクワ大学の物理数学部に入学した。授業ではもちろん板書をせず、すべて暗記した。夜中には、ベッドに横たわり、その日、耳にしたことを頭の中で反芻した。「メモをすると、授業の内容を理解する妨げになったのです」とレフ・セミョーノヴィチは打ち明けている。

 大学を卒業した後、レフは大学院に入学し、教師としての活動を開始した。そして27歳のときには、物理数学博士となった。

完全な生活を送る

 人生のそれぞれの時期に、母親は息子に対し、全面的な支援をおこなった。この支援がなければ、おそらくポントリャーギンは多くの成功を成し遂げることはできなかったであろう。またクラスメートたち、同僚、アシスタント、友人、知人たちも彼を助けた。レフはすべてを耳で聞きとり、記憶した。その記憶力は驚くべきもので、頭の中に大量の情報をとどめていた。

 論文を書くために、ポントリャーギンはタイプライターを使用した。同時に後に数学の公式を書き入れるための場所を開けておいた。

 しばらくすると、ポントリャーギンは録音機を積極的に使うようになった。レフは、母親やアシスタントが学術書や文学書を読んで録音したものを聴いた。またレフは、自身の研究を録音し、アシスタントたちがこれを文字起こしした。

 レフは完全な生活を送ろうと努力した。基本的には特別な器具をいっさい使わず、杖を使うこともなければ、人の手を借りることもなかった。そのため、よく転倒し、顔にはしょっちゅう擦り傷やあざをつけていた。それでもレフ・セミョーノヴィチは起き上がり、再び、前を向いて歩いた。

 ポントリャーギンはダンスを習得し、スキーやスケートもできるようになった。さらには2度も結婚している。

偉大な数学者

 レフ・ポントリャーギンはおよそ300の著作を発表し、その中には研究論文や教科書が含まれている。この科学への貢献に対し、彼はいくつものソ連国家賞など権威ある賞を受賞した。また国際宇宙学アカデミー、ロンドン数学協会、ハンガリー科学アカデミーの会員となった他、サルフォード大学(英国)の名誉学術博士となった。

 レフの尽力により、学術界には「ポントリャーギンの最大原理」、「ポントリャーギンの特性類」、「ポントリャーギン双対」、「ポントリャーギンの正方形」、「アンドローノフ=ポントリャーギン基準」などのという専門用語が生まれた。

 レフ・セミョーノヴィチは、シベリアの河川を中央アジアの乾燥地帯に流すようにするというプロジェクトにおいても大きな役割を果たした。このプロジェクトは結果的には実現しなかったのだが、それはポントリャーギンはこうしたプロジェクトがどのような悪影響をもたらすかを検討し、当時の指導者ミハイル・ゴルバチョフに直接、書簡を送ったからである。

 アカデミー会員ポントリャーギンにちなんで、惑星の名前が付けられているほか、モスクワには彼の名を冠した通りもある。胸像も2つ作られており、そのうちの一つは、盲人のためのロシア国立図書館に設置されている。

 「なぜレフ・セミョーノヴィチはそれほど多くのことを成し遂げられたのか」と同僚だった数学者のイーゴリ・シャファレヴィチは自問している。「それは彼が何かに挑むときに、自分にはその能力があるだろうかなどと考えたりしなかったからでしょう。彼はとにかくやりたいことをやり、自然と力が発揮されたのです。彼は常に、不可能と可能の境界をまたぎ、それを越えていったのです」。

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