レーニンはどんな人だったか:同時代人が見た外見、趣味、好きな食べ物、人柄…

ウラジーミル・レーニンとナデージダ・クルプスカヤ、レーニンの甥ヴィクトルと労働者の娘ヴェラ

ウラジーミル・レーニンとナデージダ・クルプスカヤ、レーニンの甥ヴィクトルと労働者の娘ヴェラ

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 ソ連の冷徹な建国者・指導者というイメージは、その背後にある「人間」を見え難くしているきらいがある。革命家としての活動以外にも、レーニンには、生身の人間のさまざまな側面があった。

 歴史家たちにとって、ソ連の建国者ウラジーミル・レーニン(1870~1924年)の本当の人柄を描くのはとても難しい。レーニンの伝記作家や信奉者たちによる手放しの礼賛が、それを困難にしている。彼の実際の人格はどこかへ行ってしまい、彼が生身の人間だったとは想像し難いほどだ。この記事は、レーニンに会ってその人柄を記した人々の個人的な証言に基づいている。

レーニンの身体的特徴、外見は

「1920年5月1日、クレムリンのスボートニクに参加するウラジーミル・レーニン」ミハイル・ソコロフ作、1936年

 作家アレクサンドル・クプリーン(1870~1938年)は、1919年にレーニンに会った。そのとき、ソビエト・ロシアの指導者はすでに禿げていた。

 「しかし、こめかみに残った髪の毛や、顎ひげ、口ひげを見ると、彼が若い頃、燃えるような赤毛だったのが分かる」。クプリーンは記している。「彼は奇妙な歩き方をしている。まるで両足を引きずっているかのように、左右によろよろと歩く。背が低く、肩幅は広く、痩せている」

 「小柄で、どちらかと言えばがっしりした体格で、多少いかり肩で、頭が大きかった…。ウラジミール・ウリヤノフは、顔立ちは整っておらず、醜かった。小さな耳、突き出た頬骨、短く幅広でやや平べったい鼻。しかも、口は大きく、歯並びは悪く、黄ばんでいた」 

 アレクサンドル・ナウモフ(1868~1950年)は、シンビルスク(現在のウリヤノフスク)のギムナジウムでレーニンと同窓だったが、彼についてこう述べている。「しかし、彼と話していると、彼の平凡な外見はすべて、驚くべき知性とエネルギーで輝く、小さいながらも素晴らしい眼差しを見るや、消え去ったように思われた」

レーニンの知的能力

クレムリンの書斎で働いているレーニン。1918年

 アレクサンドル・ナウモフは、後に帝政時代最後の政権で農業大臣になった人物で、レーニンをあまり好まなかった。それでも、彼は、将来の共産主義の指導者のずば抜けた知的能力を認めている。

 「彼は、ありふれた子供っぽい遊びやいたずらには決して加わらず、これらすべてから常に距離を置き、継続的に勉強に打ち込んでいた」。ナウモフは振り返る。「彼は、まったく並外れた能力を持ち、膨大な記憶力を備え、飽くなき科学的好奇心と並外れた学習能力で際立っていた。まさに、歩く百科事典だった」

 レーニンは、ギムナジウムでの中等教育を金メダルで終え(アレクサンドル・ナウモフが銀メダル)、カザン大学に入学したが、革命活動を理由に退学させられた。それでも、彼は、学外学生としてサンクトペテルブルク大学法学部の卒業検定試験を受け、法律学の学位を取得し、しばらく弁護士として働いていた。

 レーニンの知力は、生涯を通じて強靭だった。たとえば、彼は、一度見ただけでそのページの文章を記憶できる能力で知られていた。

レーニンはスポーツをしたか

1913年にポーランドのザコパネ市付近の山を散策しているレーニン。

 レーニンは、今日我々が考えるようなスポーツ好きではなかったが、身体を動かすことをためらわなかった。彼は熱心な狩猟家で、シベリアのシュシェンスコエに流刑中、妻ナデージダ・クルプスカヤ(1869~1939年)といっしょに鳥やウサギを狩っていた。ただし、彼は、射撃はそんなに正確ではなかった。

 レーニンは自転車によく乗り、事故に遭ったこともある。1909年、フランスでロールスロイスが彼の自転車にぶつかったが、レーニンはうまく飛び降りることができた。彼は車の所有者を訴え、約230ロシア・ルーブルを勝ち取り、140ルーブルで新しい自転車を買った。

 レーニンは自転車で長距離を走るのが大好きだった。側近ゲオルギー・ジノヴィエフは次のように記している。「レーニンは、単に泳いだり、美しい川の風光明媚な岸辺を散歩したりするために、わざわざ我々を自転車に乗せて、60~70キロメートル先まで連れて行ってくれた」。こうしたサイクリング中の条件は、政治について議論しないことだった。

食事の好みは

 レーニンは、生涯を通じて身体が丈夫で健康だった。食事にはあまり注意を払わず、粗食も平気だった。流刑の最初の数年間、彼は一日一回しか食事できなかった。ロンドンでは、彼はパブで卵、ベーコンを食べ、お好みのラガー(ビール)を飲む方が安上がりだと気づいた。ジュネーブ滞在中は、レーニンとクルプスカヤは労働者の食堂で食事した。

 しかし、夫妻は、食費を自分たちで稼いでいたわけではない。レーニンが政治活動に集中している間、仲間の社会主義者たちが援助していた。革命後、彼がクレムリンに住むようになると、彼自身とクルプスカヤ、そして妹のマリア・ウリヤノワのために、料理人が雇われた。レーニンはキノコ、ナス、パテ、ビーフストロガノフが好物だった。

 もっとも、彼は、自分がもっぱら快適な環境で育ったことは弁えていた。彼は、革命前のサンクトペテルブルクで、パンの品質が向上したことに労働者たちが気づいたのに、自分はそうでなかったことを後に振り返っている。

 「困窮したことのない私は、パンのことなど考えもしなかった。パンは私の執筆の副産物のように、ひとりでに現れたみたいに思えた」

 面白いのは、レーニンがお茶を非常に有り難がっていたことだ。お茶は、彼の知的生産力を高め、夜更かしして仕事をするのに役立ったからだ。レーニンは、とても濃いお茶を好んだ。彼はお茶を「戦略的飲み物」と考えていた。1918年、革命直後のボリシェヴィキ政権最初の法令の一部は、国家に有利なようにロシア国内のすべての茶供給を没収するものだった。

レーニンの人格は

 「神経がビリビリしている。思い切り活発に活動しなければならない」。レーニンは、1917 年の 2 月革命の直後に、政治体制のさらなる変化を予想してこう記している。彼は、生涯ほぼずっと、異常に神経質で緊張しており、不機嫌なことが多かった。

 「ウラジーミル・イリイチを知る人は皆、彼の気分の変わりやすさを覚えているだろう。あるときは、子供のように陽気で、周りに伝染するように笑い、頭の回転の速さで相手を魅了し、涙を流すほど次々に冗談を飛ばしたかもしれない。ところが、別のときには、むっつりして厳格で、内向的で、高飛車で、短いきつい言葉を投げつけていた」。レーニンの弟ドミトリー・ウリヤノフは回想している。

 レーニンの話しぶりがかなり辛辣だったという証言は数多くある。「会話の仕方は、いつも皮肉で、見下したような、侮蔑的な口調になる。これは、無数の論争の中で身についた長年の習慣だろう」。こうクプリーンは書いている。

 「彼は極度に秘密主義で、仲間にも冷たい。誰とも友達ではなかった。私の覚えているかぎり、彼が多少なりとも私に対して親し気にかつ率直に話したことはなかった」。ナウモフもこう記す。

 レーニンは、楽し気に礼儀正しく会話することもあったが、敵に対しては容赦なく残酷だった。彼による処刑命令を見なければ、彼の性格のこうした一面は完全には分かるまい。とくに1918 年に出された指令には、次のように書かれていた。

 「クラーク(富農)、聖職者、白軍将兵に対して、容赦ない集団テロを実行せよ。疑わしき者は、郊外の強制収容所に収監せよ」

 レーニンは革命活動を始めて以来、常に不安と危険にさらされていたため、極度に神経質な人間になった。彼はよく家の使用人や護衛に腹を立て、生涯ほぼ常に睡眠不足だった。

レーニンの趣味  

イタリアのカプリ島でマクシム・ゴーリキーの別荘を訪れるウラジーミル・レーニン

 スポーツに類するもの――毎日の体操とビリヤード――を除けば、レーニンの主な趣味は、音楽とチェスしかなかった。彼は子供の頃にピアノを習っていたが(伝統的に、貴族の子弟の多くは、ピアノを習っていた)、その後練習をやめてしまった。この楽器を「女子の娯楽」だと考えたためだ。

 それでも、彼は音楽が好きだった。「ウラジーミル・イリイチは、(妹の)オリガといっしょにピアノに合わせてよく歌っていた。オリガは演奏が上手で、美声で、歌が上手だった」。弟ドミトリーは回想している(*妹オリガは、レーニンより1歳年下で、19歳で早世している)。

 レーニンは大人になっても音楽への愛情を保ち続けた。ベートーヴェンとワーグナーが彼のお気に入りの作曲家であり、シューベルト、ショパン、リストも好きだった。しかし、彼はこの娯楽が自分にとって“やや快適すぎる”と考えていた。彼はよくこう言っていた。

 「神経が高ぶって音楽が聴けないこともよくある。それでも、洒落た馬鹿話をしたり、汚らわしい地獄の中で生きながらこれほどの美を生み出すことができる人々の頭を撫でたりしたい気持ちはある。だが、今日では、彼らの頭を撫でることなどできない。彼らは君の手を噛みちぎるだろう。君は、彼らの頭を打たなければならない。容赦なく殴るのだ。もっとも、我々は、理想としては、人々に対するあらゆる暴力に反対だが」

 レーニンは、学童の頃からチェスをしていた。さらに、彼はチェスのパズルを解いたり、手紙で対戦したりした。当時最高のチェスプレイヤーに会ったこともある。弟ドミトリーは次のように回想している。レーニンには、「『既に指した手を戻さない』という規則があり、真剣にプレーし、『楽勝』できるゲームは好まなかった。レーニンは、相手が弱いときには、相手を先手にした。彼は相手が良い指し方をすると喜んだ。15歳のとき、彼はもうチェスで父親に勝っていた」。

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