ピョートル大帝は新都建設にネヴァ川河口のデルタ地帯を選んだ。この川は、ロシアで二番目に大きい湖であるラドガ湖とバルト海をつないでいる。8世紀から13世紀にかけて、ネヴァ川にはいわゆる「ヴァリャーグからギリシアへの道」、すなわちスカンディナヴィアからビザンティンまでを結ぶ水上交易路が通っていた。
フィンランド語の「ネヴァ」は「沼地」という意味である。おそらく、そのために「ネヴァ川沿岸の都市」 =「沼地の都市」という連想が起こったのだろう。
だが、この地域には昔から常に人々が定住してきたし、そしてもちろん、彼らは文字通り沼地の只中で暮らしていたわけではない。この地に最初に住み着いたのはフィン・ウゴル族で、その後に東スラヴ人がやってきた。
時代が下り、ロシアとスウェーデンの間で支配権がたびたび入れ替わることになるが、これに終止符を打つことになったのは、1703年にピョートルが新都建設の地として最終的にこの地域を手に入れることになった「大北方戦争」(1700−1721)である。サンクトペテルブルクが築かれるまで、オフタ川がネヴァ川に流れ込む場所には、スウェーデンの都市ニエンとその中心的な要塞であるニエンシャンツがあった。
ニエンシャンツを征服したピョートルは、このオフタの地に新都建設に従事する工夫たちを住まわせた。そして、戦略的な重要地であるザーヤチィ島では、自らのペトロパヴロフスク要塞の建設に着手した。この島はネヴァ川河口の最も開けた場所に位置しており、要塞からは二つの主要な支流の航路を掌握できた。
ところで、このネヴァ川支流の沿岸地域は確かに湿地帯であり、アシやスゲが生い茂っていた。そのため、新都建設の際には川岸に盛土が施され、杭や支柱で補強された上、花崗岩で覆われた。川床は障害物が取り除かれ、平らに均された。
サンクトペテルブルクの島々にも沼地があった。ワシリエフスキー島やクレストフスキー島、また、夏の庭園やネフスキー大通り近くなどがそうだ。沼地干拓のために、運河が掘られ、小川や細流は埋められた。ちなみに、最も乾燥した土地の一つは現在の「蜂起広場」辺りで、近くには鬱蒼とした森が広がっていた。
実のところ、沼地よりも洪水のほうがずっと多くの問題を新都にもたらした。この都市はネヴァ川沿岸の低地に位置しており、サンクトペテルブルク中心地区の海抜はわずか1~5mである。そしてフィンランド湾から吹く西風は、毎年ネヴァ川の水位を上昇させる。
最も壊滅的な洪水は1824年と1924年に起こった(水位の上昇はそれぞれ421cmと380cm)。この問題がようやく解決されたのは21世紀になってからのことであり、総延長23,4 km、11基のダムからなる洪水調節システムの稼働が開始されたときだ。ダムの建設工事は2011年まで30年以上にわたって行われた。