「私は、ヒトラーがついに、ワイマール共和国の困難な時代において、ドイツ国民に必要なもの、つまり明確な目標、厳格な秩序と規律を与えてくれたと確信した…。私は、国家社会主義の運動の中に力を見た。それは、ドイツを新たな経済的、政治的繁栄に導くことができる」。SS中佐ハインツ・フェルフェは若い頃にこう考えていたという。
当時の彼には想像さえできなかっただろう。戦後、ごく短期間のうちに、彼が熱心なナチス党員から確固たる共産主義者に変わり、かつては人間以下だと考えていたソ連国民をまったく別の目で見るようになるとは。
ヒトラーを「ヒトラーユーゲント」の少年たち
Universal History Archive/Universal Images Group via Getty Imagesフェルフェは、1931年に10代でナチスの隊列に加わった。青少年団体「ヒトラーユーゲント」で数年間活動した後、親衛隊に入隊した。
「我々、親衛隊員は、この国のエリートであるように感じていた。エリートたる我々は、壮大な使命を担っており、その使命とは、ドイツ国民が世界において主導的な役割を果たしていくことである。そして、我々はその使命を固く信じていた。我々は、これと違った感情はもてなかった」。フェルフェは当時、こう考えていた。
フェルフェは、その勤勉さ、忍耐力、卓越した組織能力にくわえ、大学で法学を専攻したこともあいまって、「国家保安本部」の第 6局で出世階段を駆け上がった。1943 年、彼は若干 25 歳でスイスとリヒテンシュタインを担当する部門の責任者になっている。彼の部下には、彼より階級が上の者たちもいた。
第三帝国崩壊前夜、親衛隊中尉だったフェルフェは、すでに戦争犯罪のイメージが強かった親衛隊を抜けてドイツ国防軍に移ろうとしたが、失敗した。 1945 年 5 月にイギリス軍に捕らえられ、1 年半収監された。
第二次世界大戦の時のハインツ・フェルフェ
Archive photoハインツ・フェルフェの犯罪への関与は立証できなかったため、1946年に釈放された。その後、彼は、英国諜報機関「MI6」と短期間協力し、ケルン大学における共産主義の地下組織を摘発していた。
戦後最初の数年間、フェルフェは、過去の出来事とそこでの自分の役割を深く見直し、将来の道の選択についても熟考した。彼は、西ドイツに住んでいたが、ソ連の占領地域をしばしば訪れた。そこには、彼の母が残っていた故郷ドレスデンも含まれていた。
「故郷の街の廃墟を目の前にしたとき、私には、それが一つの象徴であるように思われた。つまり、英米の爆撃機が意味もなくドレスデンを壊滅させたのに、1945年5月8日以降、ソ連兵は、ベルリン市民に食料を届け、配った。こうした状況の象徴だ」。フェルフェは回想録にこう記している。
「そして、新しい、つまり平和で民主的なドイツは、ソ連との互いに忠実で友好的な協力によってのみ建設できること、ドイツの未来は東側にしかないこと、そして私がそのために貢献したいと思っていることが、私には明瞭になった」
破壊されたドレスデン
Fred Ramage/Keystone Features/Getty Imagesだから、1951年に情報機関員がフェルフェの前に現れたとき、彼が協力に喜んで同意したのは驚くに当たらない。
「ソ連側が私を非常に信頼していたことに驚いた」。フェルフェはこう振り返っている。「何と言っても私は親衛隊員で、しかもナチの情報機関で働いていたからだ。ずっと後にこのことについて尋ねたら、次のように言われた。『なぜ君は驚くのか?我々は君の以前の経歴について知っていた。そして、君とはお互いに理解し合えるだろうことが分かったのだ」
当時、フェルフェは、西独の全ドイツ問題省の職員として難民問題に取り組んでいた。モスクワからの指令で、彼は西独に新設された諜報機関「ゲーレン機関」に加わった。
ゲーレン機関は、これを創設し率いていたラインハルト・ゲーレン(元ドイツ軍陸軍少将)にちなんで名付けられた。この機関は、米中央情報局(CIA)の管理下にあり、第三帝国の元諜報員を積極的に採用した。「『老兵』が再び求められていた」と、フェルフェは指摘する。
ゲーレン機関において――これは1956 年に「連邦情報局」(BND)に改組された――フェルフェは間もなく、ソ連および社会主義諸国に対する防諜部門の責任者に昇進した。こうして彼は、実は自分が協力してきた人々と「戦う」ことになった。
ハインツ・フェルフェ。東ドイツで開催された自伝の発表会にて。
Mehner/ullstein bild via Getty Images「BNDでの防諜活動の結果として、私は、BNDの意図に関する情報を、ソ連の情報機関に提供できた」。フェルフェは回想する。「我々は、BNDの危険な行動を適時に認識し、それに対して積極的にまた確実に対抗するよう、私の立場から支援した」
たとえば、ケルンのソ連通商代表部に盗聴器が設置されたことや、そのスタッフを西側に採用しようとする取り組みについて、モスクワは知った。フェルフェはまた、西独にいたソ連諜報員の逮捕が迫っていると警告。おかげで彼らは、うまく逃亡できた。
さらに、フェルフェは、西独政府の活動、外交政策、北大西洋条約機構(NATO)との関係に関する情報も入手した。
「BNDがアデナウアー(*コンラート・アデナウアーは1949~1963年に西独首相)に送った文書は、彼の机に届く前にモスクワに着くことが多かった」。ソ連の秘密警察KGBの将校ヴィタリー・コロトコフはこう語った。
ハインツ・フェルフェとそのエージェントたちの活動のおかげで、1951~1961年にソ連は、1万5千超の機密文書のコピーを受け取り、社会主義陣営内で活動していた94人の西独諜報員を特定した。
裁判官へ向かうハインツ・フェルフェ、1963年7月8日
Fritz Fischer/picture alliance via Getty Images10年間にわたり、西独内でソ連情報機関は、一度も大きな失敗を経験しなかったが、これは結果的に、BND指導部の疑惑を招かざるを得なかった。ゲーレンは、組織内に特別グループの創設を命じた。その任務は「もぐら」を特定することで、結局、グループはその任務を成功させた。
1961 年 11 月 6 日、ハインツ・フェルフェは逮捕された。彼は、当局への協力を拒否し、懲役14年の判決を受けた。判決文に記されていたところでは、「彼は極めて危険な人物だった。それは、とりわけ彼の重要な職務、高い知的水準、そして良心の完全な欠如に関係していた」
1969年2月17日、フェルフェは、東独でスパイ容疑で収監されていた21人と交換された。モスクワのKGBでしばらく働いた後、この情報将校は、ベルリンに定住し、そこで法科学を研究し、回想録を執筆した。
ソ連はハインツ・フェルフェに、赤旗勲章と赤星勲章を授与した。2008年3月18日、死の直前に、この情報将校は、ロシア連邦保安庁(KGBの後継機関)から90歳の誕生日を祝われた。
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