「ストランニク」は、ロシアのあらゆるところにいた。鬱蒼たる森林からツァーリの居室にいたるまで。そして、彼らの助けを借りて、人々は、秘密の通信を行い、最新のニュースを知った。
キリストは弟子たちに、「すべてを捨ててわたしに従いなさい」と言われた。11世紀以来、多くのロシア人は、この呼びかけに文字通り従うようになった。彼らは、聖地を訪れて礼拝し、真の敬虔さを学ぶために、エルサレムに赴いた。そして彼らは、椰子の枝を持ち帰った。これは、本当にエルサレムを訪れたことを示す単純明快なしるしだ。「椰子」(パリマ)という言葉から「巡礼者」(パロームニク)の語が生まれた。聖地への巡礼者がロシア最初の放浪者だった。
放浪は、宗教的な理由によるものだけではなかった。古代・中世のロシアでは移動はかなり自由だった。そのため、ツァーリが農奴制と軍務を導入し始めると、「締め付け」を見て、すべてを放り出し、文字通り足の向くまま放浪する人々が現れた。
ソ連時代の歴史家セルゲイ・プシカリョフは次のように書いている。「モスクワ大公国にはまだ多くの『自由に歩き回る人々』がいた。彼らは、個人として何かに従属しておらず、ツァーリの課税の帳簿にも、行政単位の商工地区(ポサード)、郷(ヴォーロスチ)にも記録されていなかった」
プシカリョフの説明によれば、これは、聖職者や廷臣、役人の子供のうち、親の職を受け継がなかった者、土地を与えられなかった農奴の子供、雇われ労働者、放浪芸人「スコモローフ」、物乞い、浮浪者などだった。
古代・中世のロシアでは、貧しい放浪者たちは、いわば市井の聖者として人々から尊敬されていた。放浪者の「偉業」は、ユロージヴイ(放浪する聖なる愚者)のそれに近かった。
ロシア語の百科事典『ブロックハウス・エフロン百科事典』(1907年、全86巻)には、放浪者「ストランニク」について次の指摘がある。
「これは特別なタイプの物乞いで、西欧のそれとは非常に違う。西欧の物乞いは、大抵の場合、精神的、道徳的、物質的に貧しい。しかし、ロシアの物乞いの中には、とくに古においては、どの家でも歓迎される人々がおり、彼らは、訪れた家において、自分が行った場所について興味津々の話を尽きることなく語り聞かせるのだった」
「神学的な『衣装』ではなく、自分が身にまとうボロ布でキリストの教えを裏付ける、物乞いしつつ放浪する説教者。こうしたイメージは庶民にとって身近であり、理解できるものだった」。放浪者「ストランニク」を研究する哲学者ダニール・ドロフェーエフはこう書いている。 その一方で、古来より放浪者は「生きたインターネット」、あるいは「話す新聞」の役割を担っていた。新しい教会の建立、教会会議の開催、聖職者の叙階などのニュースを読み書きができない人々に伝えられたのは、聖地や各地を旅する巡礼者だった。そして、これらの放浪者は、聖地で誰かのために祈り、蝋燭を灯し、追善の祈りを教会に願ったり、人が行けない僻遠の地にメモや手紙を渡すよう頼まれたりすることがよくあった。
放浪者を通じて通信も行われた。こうした文通しはしばしば暗号化されたものだった。教会の長老、高僧から普通の農民にいたるまで多くの人々がこうした方法を利用した。このような通信が奪われ暴露されることを恐れる必要はなかった。放浪者のくすんだ群れの中で、そのぼろぼろの袋や鞄から、隠された手紙を見つけることなど誰にもできなかった。
とくにロシアの司祭の間に流布していた「意味不明の文字」(тарабарская грамота)という暗号文で手紙を書くと安全だった。謎めいたシベリアの長老フョードル・クジミチ(隠棲した元皇帝アレクサンドル1世だとの噂があった)も、放浪者を通じて密かに文通していたが、彼の私信は一通も警察に入手されなかった。
古代ロシアでは、当初、放浪者はこう呼ばれた。「カリカ」(калика)という言葉は、古代のロシア語に由来しており、女性形でも男性形でもある。19世紀のロシア語辞典編纂者、ウラジーミル・ダーリは次のように説明した。
「カリカとは、歌謡と言い伝えによれば、巡礼者、放浪者である。あちこちさまよい、放浪し、物乞いするが、謙抑さ、信心、慈善行為におけるボガトゥイリ(勇士)である」
ここでは物乞いが「勇士」とされていることに注意してほしい(もちろん、すべての物乞いが勇士扱いされたわけではない)。19世紀には 「カリカ」は、聖歌や詩篇を歌う物乞いと考えられていた。ロシア語の「身体障害者」(カレカ калека)と似ているが、この類似は、いずれの語も、チュルク語の「kalak」(傷ついた)に由来していると考えれば説明できる。
「カリカ」は、集団で放浪した。集団は、「ヴァタガ」、「アルテリ」などと呼ばれた。そして、これらの集団には、独自の組織構造があった。たとえば、『ブロックハウス・エフロン百科事典』には、ミンスク県(現在はベラルーシにある)の「ヴァタガ」について、次のような説明がある。
「ヴァタガ」を率いたのは盲目の「アタマン」である。「カリカ」を正式に名乗るためには、6年間見習いとなり、年間60コペイカを寄付する必要があった(教会でカリカのために蝋燭を立てる料金)。そして、祈祷の文句、「カリカ」の詩と歌、そして彼ら特有の言葉に関する試験に合格しなければならなかった。
「ヴァタガ」には、会計係や、「百人隊長」、「十人隊長」もいた(これは古代ロシアの軍隊の階級が転用されたものだ)。
「ヴァタガ」内の決定は総会で行われ、そこですべての幹部が選ばれた。規則に違反した者は罰せられ、「袋破り」をされた。つまり物乞いの袋を切られた。
「カリカ」の中には、付き添いに手を引かれた、天涯孤独な盲目の語り部もいた。彼らは施しを集め、聖歌を歌い、詩篇を読み、ときには楽器――リラ(*いわゆるハーディ・ガーディで、木製のホイールが弦を擦って音を出す弦楽器の一種であり、ハンドルで操作する)、グースリ(*スラヴ版チター)、ドムラ(*3~4本のスチール弦と丸い共鳴板を持つ弦楽器)――を演奏して、自分で歌に伴奏した。
こうした盲目の語り部は、皇室も訪れたこともあった。イワン雷帝(4世)が居を構えていたモスクワ郊外のアレクサンドロフでは、就寝前の雷帝に朗読した。17 世紀の皇宮の女性たちの居室では、多くの物語やゴシップを知っている放浪者や巡礼者が常に歓迎され、部屋の 1 階には独立した食堂と寝室が用意されていた。
語り部は、放浪芸人「スコモローフ」に非常に近かったが、政権が「スコモローフ」を厳しく禁じていた点が異なる。そのため、17世紀末までに、ロシアには「スコモローフ」の「ヴァタガ」はほとんどなくなっていた。しかし、この時期までは、結婚式や葬儀は放浪楽師なしでは成り立たなかった。いくつかの資料によると、若い頃のイワン雷帝は、「スコモローフ」と踊るのが大好きだった。「スコモローフ」の集団は、“プロの”物乞いの「アルテリ」とほぼ同様に組織されていた。
「正教の民よ、神の教会のために、石造りの聖堂のために喜捨されんことを!」。こうした叫び声は、ロシアのあらゆる街路や広場で何百年も聞かれてきた。これは「プロシャク」(прошак)、つまり教会の必要に応じて寄付を集める人だ。肝心なのは、これは教会のためであり、個人のための物乞いではない点だ。
放浪者を研究する歴史家セルゲイ・マクシモフは、「プロシャク」について、次のように説明している。
「町人風の青または黒の裾長外套をきっちり身にまとい、祭日におけるようにベルトを胸高に締め、厳かな品の良さを醸し出している。プロシャクは、大抵は年配者で、いつも書物を持っている。それは、黒いタフタ(琥珀織)の布にくるまれており、十字型のモールが縫い付けられている。本には小銭が乗っている。さらに、本は紐で綴じられ、紐は、国の封蝋で封印されている。最後の頁には、正教会の何らかの部局の証明が記されている」
「富裕な地区、商業都市や大聖堂では、こうした人々が数十人の長蛇の列をなしている」。マクシモフはこう書いている。彼らは、「プロシャク」のほか、「ズボールシク」、「ザプロシク」、「クブラク」、「ラボリ」などとも呼ばれた。こうした喜捨集めの中には、修道女も多くいた。彼女たちは、見習いの修道女2人に付き添われていた。常に一人で行く修道士も多かった。
「私は、自分の罪を認識し、悔い改め、懺悔し、私に仕えたすべての人々に自由を与え、あらゆる種類の労働で自分を苦しめ、乞食のような姿で身を隠すことを生涯誓った…。そうして私は15年間、シベリア中を放浪して生きてきた。ときには、自分の手におえる仕事で農民に雇われ、ときにはキリストの名において施しを受けて自分を養ってきた。おお! これらすべての困難を乗り越えて、私はどれほどの至福、幸福、そして良心の平安を味わったことか!」
これは、放浪者となった某公爵の言葉だ。19世紀ロシアで非常に人気があった書物『放浪者が師に率直に語った物語』の匿名の著者が引用している。
古のロシアで最も尊敬されていたのはこうした放浪者、つまり放浪のために故意に生活を捨てた人々だった。画家ワシリー・ペローフは、こうした放浪者の一人、フリストフォル・バルスキーを次のように描写している。
「背は高いが、すでに曲がっている。あたかも、暖冬に綿雪が覆ったトウヒの梢のようだ。彼の顎鬚は、公爵ほど白くなく、むしろ灰色で、曇った銀の色を思わせるが、端を切り揃えている。眼差しは悲しげだ。まるで黒いベールか、長い苦しみの時に覆われたかのように…。マントの代わりに、彼は、黒パンの色のゆったりした、継ぎの当たった農民のカフタン(外套)をうまく着こなしていた。腰は、銅のバックルが付いた細いベルトで締めていた…。このような粗末ななりにもかかわらず、老人の姿全体、とくに彼の容貌には、彼の服と地位にそぐわない何かがあった」
作家アントン・チェーホフは、こうした放浪者たちについて次のように書いている。
「ロシア全土を思い描いてみよう。どれほどたくさんのタンブルウィード(*風に吹かれて転がる球状の枯れ草)が、より良い場所を求めて、広い田舎道を歩いたり、宿屋や居酒屋や、屋外の草の上で、夜明けを待ちつつまどろんだりしているだろうか」
人々は、こうした放浪者たちを喜んで歓迎し、彼らの自由と、世界と人々についての知識に感嘆した。彼らの中に、その人格のほかに、放浪者の「元型」を見てとったのである。
「古のロシアにおける放浪は、民間宗教であり、放浪者は市井の聖者だった。彼らは、宗教的権力と国家権力から自由だった。彼らは民衆に身近だった。なぜなら、彼らは民衆から離れず、常にその側にいたからだ…。そして、誰もがこういう理想に接する可能性をもっていた。さらに言えば、自分自身が放浪者になる可能性さえも」。ドロフェーエフはこう書いている。
「…人民は飛び付くやうに近寄つて来て祝福を求める。救を求める。種々の相談を持ち掛ける。その中には霊場から霊場へ、草庵から草庵へとさまよひ歩いて、どの霊場でも、どの山籠の僧の前でも、同じやうに身も解けるばかり、感動する性の巡礼女が幾らもある。この世間に類の多い、甚だ非宗教的な、冷淡な、ありふれた巡礼者の型は、セルギウスも好く知つてゐる。それから又こんな巡礼者がある。それは軍役を免ぜられた兵卒の老人等である。酒が好で、真面目な世渡が出来なくなつてゐるので、僧院から僧院へと押し歩いて、命を繋いでゐるのである。」(レフ・トルストイ『神父セルギイ』、森鴎外訳)
作家レフ・トルストイは、中編小説『神父セルギイ』の中で、典型的な放浪者をこのように描いている。すべての放浪者が真の信仰者で、敬虔な生活を送っていたというわけではない。運命がごく普通の人々を路上に追いやることもあった。彼らは、生きていくために物乞いを強いられた。だから、まさにこういう人たちが、放浪者の巨大な灰色の群れをなし、あらゆる巡礼地に数百人、数千人がいた。
しかし、20世紀初めには、ロシアはすでに鉄道網に覆われており、そのおかげで空前の人口の移動が可能になり、徒歩の放浪は過去のものとなりつつあった。なるほど、皇帝ニコライ2世とその家族は放浪者、「裸足のワシリー」や「サロフのパラスケワ」を歓迎した。しかし、これらの“放浪者”は有名で、多くの崇拝者をもっており、主に匿名性によって区別される放浪の理想からすでにかけ離れていた。そして、皇帝夫妻の彼らへの関心は、待望の跡継ぎ、アレクセイ皇太子が生まれるとすぐに消えた。
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