ロシアで誕生日を祝うようになったのはいつから?

Nikolai Nevrev
 この伝統が生まれたのはボリシェヴィキの治世下。主な理由は、ようやく人々が自分の生まれた日を理解できるようになったからだ。

 革命前のロシアの村では、人の誕生にまつわる祝い事は誕生日そのものではなく、洗礼を受けた日だった。農民たちにとって、それは至極当然のことだった。ロシアの農村に医療は無く、誕生して数日は、新生児が生きられるかどうかは不明だった。悪霊を招いてしまうという迷信のため、新生児に洗礼を受けさせるまで、両親は周囲に誕生を報せなかった。

産婆はいつ新生児に洗礼を施すか? 

 新生児が明らかに生き延びられそうもない場合、両親は急いで神父を呼んだ。例え生まれて間もない新生児でも、洗礼を受けなければ死後に天国に行けず、親を苦しめることになる。この信仰は非常に根強く、神父を呼べない場合(場所が遠い、神父が取り込み中、或いは到着まで新生児が持たない)、産婆が自ら洗礼をほどこし、名前を決めて、聖水を振りかけた。
 新生児が健康であれば洗礼式を急ぐ必要は無かったので、代父母を選んで祝いの準備ができた。健康な赤ん坊は、誕生から3日目ないし8日目に洗礼を受けさせた。

 洗礼に際し、赤ん坊に聖人の名が与えられる。洗礼を受けさせる日が記念日となっている聖人の名が選ばれた。もっとも、両親がその聖人の名前を気に入らなかった場合、隣り合った日の聖人の名をつけることもあった。

名の日はどう祝った? 

 赤ん坊の洗礼が済んで、ようやく肩の荷が下りた気分!これで夫も妻にプレゼントなどを贈ってあげられるし、親類たちは若い両親を祝福できる。赤ん坊には霊的世界で守ってくれる守護聖人がつき、この守護聖人を敬い崇めなければならなかった。名門の子息たちは、洗礼を受ける日に自分の守護聖人のイコンを贈られた。

 革命前のロシア人は毎年、誕生日ではなく、自分の名の日、すなわち守護聖人の記念日を祝った。その日は朝から教会に行くのが習わしだった。その「名の日にあたる人」は必ず聖体機密を受けた。夕食は隣人を招くなどして祝宴となり、ピローグなどをふるまった。名門や皇帝は、名の日にピローグやパンを配る風習もあった。伝統的に、名の日には必ず小麦製品を食べ、親族縁者にも振る舞うものとされていた。

 しかし、それができたのは裕福な層の話。貧しい農民は滅多に名の日を祝えなかった。公的ではなく私的な祝い事なので、地主も共同体も、その日の労働を免除してはくれないのである。

いつから誕生日を祝うようになった?

 最初に誕生日そのものを祝ったのは、ロシアの皇帝たちだった。フョードル・アレクセエヴィチは1676年5月30日(6月9日)に初めて15歳の誕生日を祝った。次第に他の皇帝たちも誕生日を祝うようになる。ピョートル大帝は国外にいた時を含め、何度か自分の誕生日を祝った。 

 誕生日が一般人の間でも祝われるようになったのは19世紀のことで、当初は裕福な商人や貴族の間で広まった。重要なのは、彼らが自分の誕生日を把握していたことである。農民と違って商人や貴族は読み書きができ、時計とカレンダーが読めたのだ。 

 19世紀末、皇帝や皇后ら皇帝一家の「名の日」は国家レベルで祝われ、ロシア中で感謝祈祷が行われた。だがボリシェヴィキが権力を握ると、当然ながら、名の日を祝う伝統はたちまち途絶えた。

 こうして公に、誕生を祝う日付は誕生日そのものになった。宗教の否定ばかりが原因ではない。ソビエト政権の当初からレーニン政府は国家体制の構築に注力し、戸籍登録機関の整備や、一般医療の改善、識字率向上を推し進めた。こうした要因が重なって、国民は自分の誕生日を把握できるようになり、また子供の誕生日を祝うことを恐れなくなった。

 急速な工業化が進む社会には周産期医療が不可欠で、赤ん坊の健康は産婆やまじない師ではなく、医療従事者の手に委ねられるようになった。こうして、迷信や凶兆を恐れる必要も無くなったのである。

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