1940年代は平和のうちに幕を開けた。赤の広場ではパレードやデモが行われた。
同盟会館には新年のもみの木が飾られた。
来訪者たちは大きな関心を持って、1939年にオープンした全ソ連農業博覧会(現在のVDNKh公園)を見学した。そこではソ連のすべての共和国のパビリオンが設置されていた。
展覧会の主要な見どころはもちろん、ヴェラ・ムーヒナによる「労働者とコルホーズの女性」像であった。
スターリンのモスクワ再開発計画が終了し、広い大通りが作られた。
自動車に乗る人たちは、作られたばかりのモスクワ川に架かるクリミア橋に歓喜した。
人々は映画やショッピングを楽しみ、美しく着飾り、人生を謳歌した。
そしてもちろん、拡大し、新たな駅を増やしつつあった地下鉄を満喫した。
しかしその後、大きな不安と共に開戦の知らせを聞いた。
街の景観はまったく違うものとなった。所々に対戦車用の障害物が設置された。
店のショーウィンドーには爆撃からガラスを防護するための袋が置かれた。
また敵の空軍の視界を遮るための巨大なエアロスタットを目にすることもできた。
対空砲はモスクワの空を防御した。
10月革命の記念日を祝うパレードから大勢の兵士たちが前線や防衛線、そして1941年にはすでに激しい戦闘が行われていた西方の国境沿いへと向かった。
モスクワ動物園は開戦直後に爆撃を受けながらも、営業を続けた。
多くの動物が疎開したが、職員たちは懸命にモスクワに残った動物の世話をした。
地下鉄は防空壕と化した。写真は「マヤコフスカヤ」駅で寝泊まりする人々。
マヤコフススキー広場では通行人にガスマスクが配られた。
1944年7月17日、モスクワでは「勝利者のパレード」が行われ、5万7000人以上のドイツ人捕虜が隊列を成して、内務省軍の護衛の下、サドーヴォエ環状道路やその他の通りを行進した。モスクワ市民は「ヒトラーに死を!」と声をあげたりはしたものの、疲弊しきった捕虜たちに特別な悪意は見せなかった。行進が終わると、捕虜たちは収容所に送られた。
1945年5月9日、モスクワでは待望の勝利が大々的な花火と共に祝われた。
喜びに満ちたモスクワ市民たちは鉄道駅で、花束を抱えて、祖国防衛者の英雄たちを出迎えた。
1945年7月24日、赤の広場で、第一回目の伝説的な戦勝パレードが行われた。
1947年9月、モスクワは創建800年を大々的に祝った。
創建記念日に合わせて、モスクワでは大規模なスポーツパレードが行われた。
モスクワはイルミネーションなどで盛大に飾られ、人々はこぞって散策し、夜には花火を楽しんだ。
モスクワは再び平和な生活を取り戻した。人々は子供たちを連れて、ツヴェトノイ大通りにあるお気に入りのサーカスに通い始めた。
滑り台に乗りに行ったり。
ディナモ・スタジアムでサッカーを観戦したりした。
モスクワでは高層ビルの建設も始まった。
そして、最初のスターリン主義の高層ビルの輪郭が現れた。