1. ニコライ・ヴトロフ — 6千万ルーブル
ヴトロフはその企業家としての手腕から「シベリアのアメリカ人」と呼ばれた。商人として成功した父親が1千300万ルーブルの遺産を残して他界し、恵まれた環境で彼の人生はスタートした。
1897年、モスクワに移ったヴトロフは父が残した財産で複数の会社、銀行、工場に多大な投資をした。また、化学染料工場や自動車工場といった新しい生産設備にも投資をした。
第一次世界大戦はヴトロフのビジネスには恩恵となった。いち早く軍需品生産にシフトし、工場をフル稼働させたのだ。
1917年のロシア革命後はボリシェヴィキに忠誠を誓った。しかし新政府のもとで事業を適応させるには、彼に残された時間は少なかった。明くる年の1918年、ヴトロフは謎の死を遂げることになる。
彼が住んでいたモスクワの邸宅「スパソ・ハウス」は後年、駐ソ米大使の公邸となり、その後駐ロ米大使が引き継いでいる。
2. ノーベル家 — 6千万ルーブル
イマヌエル・ノーベルもまた有力一族出身であり、石油事業に携わっていた人物だ。ノーベル家は帝政ロシア時代に石油と灯油の生産に多額な投資を行っていた。1879年に設立された「ノーベル兄弟石油会社」(ブラノーベル社)は、当時のロシアにおける灯油供給の最大手「スタンダード・オイル」から市場を奪うことに成功した。ノーベル兄弟石油会社は帝政ロシアに10ヶ所以上の製油所を建設し、パイプラインや貯蔵施設、さらには石油タンカーにも投資をした。
第一次世界大戦が始まると、会社の収益はロシアの石油需要の伸びとともに増大した。しかし、間もなく起こる経済危機と政治危機の波はノーベル家も飲み込むことになる。ボリシェヴィキが石油生産を国有化した1918年、高名なこの一家もロシアを去らざるを得なくなった。1932年、イマヌエル・ノーベルはスウェーデンで死去した。
3. サッヴァ・モロゾフ — 4千400万ルーブル
名門モロゾフ家の出自は実に慎ましいものだった。1790年代に農奴から身を起こすと、たった5ルーブルで織物工場を設立し成功させた。この小さな事業は時とともにみるみる成長し、20世紀初頭には帝政ロシア有数の繊維会社となっていた。
サッヴァ・モロゾフが一家の事業を引き継いだのはこの頃だ。彼は大富豪であり慈善家でもあった。大変革の到来を予期したのであろうか、サッヴァ・モロゾフは、一家の資産の法的な所有者であった母親に、彼らの工場の利益と経営機能の一部を労働者と共有するという新しい事業計画を提案した。これに激怒した母親によって、1905年にサッヴァは経営から外されてしまう。その同じ年、彼はフランスのカンヌで自らこの世を去った。
1918年、モロゾフ家の工場と資産は国有化された。しかし、1911年に他界していたサッヴァの母親がこの顛末を見ることはなかったのである。
4. ギンヅブルク家 — 2千500万ルーブル
サンクトペテルブルクに移り住んだこのドイツ系ユダヤ人一家は同市で銀行を設立した。「I.E. ギンヅブルク」銀行は急成長し、1860年代には帝政ロシア有数の大銀行となった。
当時の家長であったゴラツィー・ギンヅブルクは、保険事業、金鉱、鉄道、船運、砂糖工場に多額の投資をした。彼は男爵の爵位を授与され、皇帝側近の高官たちとも繋がりがあった。
1890年代前半、銀行事業が危機を経験し、一家は採鉱事業に目を向けるようになる。 そして、ゴラツィー・ギンヅブルクは資金潤沢なレンスキエ金鉱業会社の支配権を得ることに成功した。
1912年、レニンスキエ鉱山の労働者たちが暴動を起こしたが、激しい弾圧が加えられ処刑された。この事件は広く報道され、結果として経営陣は退陣を余儀なくされた。 残ったギンヅブルク家のメンバーも、革命を逃れて1917年にロシアを去った。
5. グカソフ家 — 1千500万ルーブル
有力な一族であったグカソフ家の三兄弟の一人、アブラム・グカソフは石油事業で財を成した。
彼は兄弟とともに「カスピ海石油貿易会社」を設立、60ヶ所の油井を有し、アブシェロン半島の石油生産量全体の8%を占めた。
1917年、三兄弟は騒然とするロシアを去りフランスへ亡命することになる。海外に多くの繋がりを持っていたアブラム・グカソフは亡命先でも事業を成功させ、1924年には「Des Petroles d’Outre-Mer」という船舶建造会社をパリで設立した。アブラム・グカソフは1969年、スイスでこの世を去った。