古代、中世のロシアでは、「残酷な死」をもって罰せられた罪は、君主への反逆、親子間の義務の放棄、殺人、冒瀆、ある種の淫行などだった。
ツァーリ殺し
ツァーリとその家族の生命と健康に対する良からぬ企み、ましてや彼らを暗殺する企ては、古代ロシアでは最悪の重罪だった。その意図が証明された場合は、加担したすべての者、および陰謀について知りながら通知しなかった者は、死刑となった。
17世紀には、君主暗殺の企てについて伝えるには、「最も重大な」言葉を言う必要があった。すなわち、「陛下に対する言葉と行い!」«Государево слово и дело!»。これは、この言葉を発した者が、ツァーリに対する言葉(陰謀)または行為(暗殺の企て)について知っていることを意味する。そのような人々は、モスクワの治安機関へ直ちに送られることになっていた。
『教会法典集』は、教会と国家の法の主な集成の1つだが、ツァーリへの悪だくみは、男女双方にとって、即時離婚の第一の理由となった。もちろん、誰かがツァーリに対して何かを企て、それを他人に話した場合、その人物からは皆、疫病を避けるように逃げ出したし、まず間違いなく当局に報告された。
家族、親子間の義務の放棄
『イズマラグド』(エメラルドの意味)やより有名な『ドモストロイ』(家庭訓)など、教会の訓戒をまとめた書には、まず第一に、自分の家族や自宅の使用人について配慮するよう述べられている。『イズマラグド』では、ズバリ次のように言われている。「もし、他人の孤児に善行を施しながら、家族や使用人が衣服も靴もなく、空腹であるなら、それは偽善に他ならない」
親子が互いを尊重することは、すべてのキリスト教徒の第一の義務だった。両親を尊敬し、従うべきだった。正式には長男が家長とみなされていたが、もし年配の母親がいれば、彼女の意見が決定的だった。
老いた父母を軽んじることは、自分の子供を養わず、息子に遺産を与えず、娘に持参金を与えないに等しいと考えられ、世間全体から非難された。17世紀の主要な法令集である『1649年会議法典』によると、そうした人間は、鞭打ちの刑が想定されていた。それは身体障害や死亡につながることがあった。
家族の殺害
古代・中世のロシアでは、最悪の犯罪は家族の殺害で、とくに父殺しと、妻による夫殺しだと考えられていた。古代ロシアでは、父殺しについては、巨額ながら罰金を払って死刑を免れることがまだあり得た。だが、17世紀半ばから、家族の殺害は死刑となった。
妻による夫の殺害は、手の込んだ残酷さ、つまり生き埋めで罰せられた。犯罪者は、通常は人通りの多い場所で、喉または胸まで地中に埋められた。こうして罰せられた人には、警護がついた。親戚や友人が、彼女に食べ物や飲み物を与えられないようにだ。近づくことを許されたのは司祭だけで、祈りを上げるためだった。そして、通りすがりの人は皆、この不幸な人の葬式のためにお金を喜捨することを許された。
速やかな処刑が望まれた場合は、生き埋めにされた人の周りの土が、踏み固められた。すると、その人は息が詰まり、パニックに陥って死んだ。しかし、大抵は、埋められた者は、ゆっくりと死ぬままに放置された。こうして、処刑は何日も続くことがあったが、刑から逃れられることもあった。
1677年、ウラジーミル出身のフェチュシカ・ジューコワは、夫による虐待に耐えられず、鎌でその頭を切り落とした。生き埋めにされた彼女は、一日穴の中にいた後、慈悲深い修道女の求めで修道院に送られた。もちろん、こうした結末は、フェチュシカの正直な自白と、夫が「然るべき事情のために」殺されたと、周囲の人々が認識していたおかげだ。
両親による自分の子供の殺害は、重大な犯罪とみなされていた。しかし、経験の浅い若い母親が眠っている間に赤ちゃんをうっかり「押しつぶす」「眠らせる」ケースはしばしばあった。こうした殺人は常に、故意ではないとみなされ、長年の精進(断食)で罰せられた。
毒草などによる堕胎は、やはり死刑にはならなかったが、生涯、教会から破門される可能性があった。しかし、婚外子(私生児)の殺害には、より厳しい刑罰が科せられ、1649 年以来、死刑となった。
神の冒瀆
ロシア史のキリスト教導入以前の時代には、異教の聖物をけがすことは冒瀆とみなされていた。 セルゲイ・ルキヤノフは、論文『宗教犯罪としての冒瀆』の中で、こう書いている。古代ロシアの異教の掟では、異教の儀礼・儀式への違反は、宗教上の過ちとされていた。また、異教の神々を侮辱することも、そう位置づけられていた。
『原初年代記』(別名『過ぎし年月の物語』)によると、キリスト教導入の5年前、983 年にキエフで、ウラジーミル 1 世は、ヴァリャーグ(ロシアに到来したヴァイキング)のフョードルの息子イオアンを生贄にしようとした。この父子はキリスト教徒であり、父は息子を差し出すことを拒み、異教を公然と非難した。作家・歴史家ニコライ・カラムジンの記述によれば、「キエフの人々は、キリスト教を黙認していたが、彼らの信仰を公に冒瀆されて、市内で暴動を起こした」。フョードルとイオアンは殺された。
ロシアの初期の法律には、神の冒瀆への罰則は含まれていない。16世紀に編纂された『ニコン年代記』には、次のように記されている。
1004年、自らを去勢した修道士アンドリアンは、「教会の掟と主教を非難した」。そして、府主教レオンチーによって牢獄に入れられ、そこで「次第に自分自身を正し、悔い改めた」。
しかし、1371年にノヴゴロドでは、すでに住民自身が異教徒を「処分」した。3人の異端「ストリゴリニキ」が、十字架に唾を吐き、イコンを汚水溜めに投げ込み、こうすることを「弱虫ども」に教えた。彼らは、ノヴゴロド市民により、ヴォルホフ川で溺死させられた。
1505年には、「悪しき異端者」は、死刑または終身刑が科せられた。その後の法律も、冒瀆に対する罰則を確認し、強化した。
『1649年会議法典』の第一条では、冒瀆者は「暴露し、火炙りにすべし」と規定されていた。しかも、これらの事件は、教会ではなく世俗の裁判所によって裁かれた。
ちなみに、分離派(古儀式派)には、まさにこの火刑が適用された。このことがまたロシアで、悪夢のような「火の輪」、つまり古儀式派の集団焼身自殺を引き起こす。
淫蕩と「ソドムの罪」
ロシア人のあけすけな“欲望”は、外国人旅行者にとって野蛮そのものと思われた。イワン雷帝(4世)治下の、16世紀のモスクワを訪れたデンマークの貴族ヤコブ・ウルフェルトは、隣家の窓から女性が自分の「恥部」を彼に見せたことに愕然とした。とくに外国人は、バーニャ(ロシア版サウナ)から裸で飛び出すロシア人の習慣にショックを受けた。
17 世紀のドイツ人旅行者アダム・オレアリウスは、「赤の広場」で娼婦を見たと書いている。
「彼女たちは、口に指輪(大抵はトルコ石)をくわえて立っており、売りに出している。私が聞いたところでは、彼女らは買い手に、これ以外のものも提供する」
しかし、ロシア正教会は、あらゆる肉欲、淫欲の類の現れと厳しく戦った。「ソドムの罪」とは、16~17 世紀に教会が禁じた事柄すべてを意味していた。すなわち、同性愛、獣姦、近親相姦など。
しかも、異性間の性交でも、「教会が認めた正しい」体位を除いてすべてのタイプが禁止され、「大罪」とみなされた。「女性が上」の体位は、5 年間の精進(断食)で罰せられた。
『懺悔の書』には、懺悔の際にさまざまな男女に尋ねる質問が含まれており、今日では、ポルノ文学のように読める。
「さて、女よ、そなたは、女友だちの上に乗って、あるいは、女友だちがそなたの上に乗って、その女の友とともに、夫となすような事をなして罪をつくったのか?あるいは、舌をどちらの口に入れたのか?あるいはまた、欲情して他人の夫に色目を使ったか?あるいは、自分の恥部を誰にさらしたか?」
淫行とソドミー(男色、獣姦)に対する罰は、罪の重さと断罪された人の性別によって異なった。女性同士の関係が特定され証明されたケースでは、火刑が建前だったが、大抵の場合は、重い苦行を課した。「女の友だちと、男とのように遊んだか否か」が『懺悔の書』で聞かれる頻度からして、火刑はあまりに重い罰だったことが示唆される。
男性の同性愛については、火刑が明確に定められていた。官吏のグリゴリー・コトシヒンと長輔祭パーヴェル・アレプスキーは、これについてそれぞれ別個に記していることから、そう推測される。