1917年「革命前」のモスクワの姿(写真特集)

歴史
ロシア・ビヨンド
 革命後のモスクワでは多くの変化が起きたが、ここでは在りし日の首都の姿を見てみたい。その多くはここで紹介する写真の中だけに当時の姿をとどめている。

 19世紀末のモスクワの姿は先日ご紹介した。ここでは、20世紀初頭から1917年までの首都を巡る私たちの時間を遡る旅を続けることにしよう。

 路面電車の最初の路線が開通したのが1899年、ちょうど写真に見えるようにブティルスカヤ・ザスタヴァ(Бутырская Застава)停留所から運行されていた。しかし、鉄道馬車の線路が路面電車の運行拡大には邪魔だったため、20世紀の最初の10年間で鉄道馬車は廃止され、その同じルートに路面電車の軌道が敷設された。

 モスクワ川の流氷を眺める人々。

 今日、私たちが「モスクワ大学」と言って頭に思い浮かぶのは、雀が丘にあるスターリン建築の現在の大学本館だろう。しかし、20世紀の半ばまで、中心部にあるこの写真の建物が単に「モスクワ大学」と呼ばれていた。

 写真のようなクレムリンの眺めは、もう二度と観光客が目にすることはない。多くの建築物がすでに姿を消してしまっており、聖大致命女エカテリーナ被昇天修道院の彫刻が施された白亜の教会も、そして皇帝アレクサンドル2世の記念碑とその建築アンサンブルも、今は存在しない。

 アレクサンドル2世の記念碑をより近くで見てみよう(写真は正面から)。

 クレムリンにはかつて「ザリャジエ」という名の一つの街区があり、そこには所狭しと住宅や商店が軒を連ねていた。ソ連時代にこの場所は更地にされ、巨大なホテル「ロシア」が建設されたが、今は現代的な新しい公園「ザリャジエ」となっている。

 1908年、モスクワは大規模な洪水に見舞われた。町の中を移動するには写真のようにするしかなかったのだ!今は存在しないモクリンスキー横町が写っている。

 1908年の洪水ではクレムリンの城壁まで水に浸かった。

 中心部を取り囲むキタイ・ゴロドの城壁は、ソ連時代にほぼすべてが取り壊された。今日残されているのはそのほんの一部に過ぎない。たとえば、この「カトゥシュカ」塔も写真にその姿をとどめるのみだ(右の路面馬車も同様に)。

  これはクレムリン内にあったチュドフ修道院。ソ連時代に永遠に失われてしまった。

 モスクワで最も美しい建築物の一つは、幸いにも無事に残っている。20世紀初頭のパシュコフ邸には、ソ連時代のレーニン図書館の基礎となるルミャンツェフ図書館が置かれていた。現在もこの建物はそのままロシア最大の図書館である国立図書館(旧レーニン図書館)に属している。

 今のニコリスカヤ通りは歩行者専用道路となっている。ゴシック様式の白いクレムリン・ニコリスカヤ塔(写真左)はソ連時代に赤く塗り替えられ、カザンの聖母聖堂も1920年代の改築後全く違う姿となった(同右)。中央は19世紀末に建設された国立歴史博物館。

 今となっては信じられないことだが、1930年まで赤の広場を路面電車が走っていた。

 赤の広場の全体がより見渡せる写真。もちろん現在は馬車も路面電車もその姿はなく、レーニン廟が現れ、観光客で賑わっている。

 華やかな光景からモスクワの普通の路地へ目を移そう。今や外に干された洗濯物も、そもそも路地のある中庭も目にすることはない(ほとんどの場合部外者は立ち入りできず、駐車場となっている)

 クズネツキー・モスト通りには現在と同じように、大小様々な多くの商店や酒屋が並んでいた。ただ、今は歩行者専用道路となっている。

 商いで賑わうもう一つの場所は、スハレフスキー市場。後景にはソ連時代に失われたスハレフスカヤ塔が見える。

 すっかり様変わりしてしまったボリショイ劇場前のチアトラーリナヤ・プローシャチ(劇場広場)。写真は20世紀初頭のもの。

 こちらは1910年の写真。路面電車の路線が敷かれ、ボリショイ劇場の左には「ミュール&メルリーズ」百貨店が建設された。現在の有名な「ツム百貨店」の前身。

 珍しいカットはモスクワ市内のバリケード。1905年にロシアで最初の革命が起き、モスクワでは大規模な蜂起があった。

 1912年、アレクサンドル3世美術博物館がモスクワに開設された。現在の国立プーシキン造形美術博物館(いわゆるプーシキン美術館)。

 開館式典にはニコライ2世も参列した。

 1913年、ロマノフ家300周年がモスクワで盛大に祝われた。

 首都の通りはすべて豪華に飾り立てられ、盛大な祝賀行事が行われた。写真は当時の貴族会館の建物で、ソ連時代に労働組合会館に変わった。

 祝賀行事の様子を伝える一枚、トヴェルスカヤ・ザスタヴァ広場の凱旋門に大群集が押し寄せた。この門は1812年のナポレオンとの祖国戦争勝利を記念したものだ。1930年代に取り壊されたが、後にクトゥーザフ通りに同じものが建設された。

 そのわずか数年後の1917年に凱旋門を通るのは、もはや祝賀行事の行列ではなく、革命のデモ隊行進だった。

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