ロシア帝国の5つのクーデター:権力争奪のドラマの一因はピョートル大帝?

歴史
ゲオルギー・マナエフ
 ロシア帝国初代皇帝のある恐ろしい行為は、18世紀全体に影を投げかけたと言える。ピョートル大帝(1672~1725年)の死後、権力は5度にわたりさまざまな暴力によって奪われた。

 ピョートル大帝(1世)は、自分の息子よりも国を愛していたと言えるかもしれない。イワン雷帝(4世)が息子の皇太子イワンを撲殺したという話は、信憑性に疑問符が付くが、ピョートルが息子、アレクセイ皇太子の拷問を命じたのは明らかだ。アレクセイは、国家反逆とヨーロッパへの逃亡未遂で断罪され、おそらく拷問のために死んだ。

 「私は、祖国と国民のために、自分の生命を惜しんだことはかつてない。ならば、ろくでなしのお前などをどうして憐れむことができようか」。ピョートルは皇太子にこう書き送った。

 皇帝は、息子の裏切りに非常な衝撃を受け、息子の死から数年後、1722年に悪名高い帝位継承法を定めた。この勅令は、王位を男系で継承していく古来の慣習を廃し、君主に後継者を選ばせ指名させるものだった。ところが、ピョートル自身は、死に際して後継者を指名する暇がなかった。

エカチェリーナ1世(ピョートル大帝の妻) 

 伝えられるところによると、ピョートル大帝は臨終の床で、「すべてを与えよ…」と書いた、あるいは言ったというのだが、肝心の誰に与えるのかは、言う暇がなかったという。だが、この話には確証がない。ピョートルの死後、ロマノフ家唯一の男系子孫は、彼の孫(つまり獄死したアレクセイの息子)で同名のピョートル・アレクセーエヴィチ、つまり後のピョートル 2 世(1715~1730)しかいなかった。

 1724年、ピョートル大帝は、妻のエカチェリーナをロシア帝国皇后に戴冠させていた。しかし、彼女はロマノフ家の出身でないばかりか、庶民の出だった。にもかかわらず、大帝の死後、彼の右腕だったアレクサンドル・メンシコフと、国の外交を担っていたアンドレイ・オステルマンがエカチェリーナを支持する。もっとも、エカチェリーナ自身は、夫の死後、ひたすら嘆き悲しんでおり、彼女の運命の決定においていかなる役割も果たさなかったが。

 1725 年 1 月 28 日の夜、皇帝が既に瀕死の状態にあったとき、アレクサンドル・メンシコフは、特別会議を開き、帝国のすべての重臣を招集した。エカチェリーナの支持者(主に新興勢力)と、ピョートル 2 世を支持していた古い家柄の貴族との間で激論が戦わされた。

 論争のさなか、2つの近衛連隊――プレオブラジェンスキーとセミョーノフスキー――の兵士が会議室に乱入。彼らは、メンシコフの現権力を支持し、皇后エカチェリーナ・アレクセーエヴナの即位を求めた。

 ピョートル 2 世の支持者たちへの妥協案として、彼は、帝位継承権1位と宣言された。これは、後にエカチェリーナ1世の遺言に記された。彼女は、夫を悼み続けて1727年に亡くなったが、このときはクーデター起きず、帝位はピョートル2世に引き継がれた。 

アンナ・ヨアーノヴナ(ピョートル大帝の異母兄イワン5世の娘) 

 ピョートル 2 世の治世はごく短く、早くも1730 年 1 月に天然痘で亡くなった。彼は遺言を残さず、後継者を指名しなかった。彼の死により、ロマノフ家直系の男系は断絶。初代皇帝ピョートルの子孫のうち、残るはただ2人となった。すなわち、ピョートルの長女アンナ・ペトローヴナとホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒの息子であるカール・ペーター・ウルリヒ(将来のピョートル3世)。そして、ピョートルの次女エリザヴェータ・ペトローヴナだ。

 ところが「上層部」、つまり当時ロシアを実質的に支配していた最高枢密院(ゴリーツィン公爵、ドルゴルーコフ公爵など旧来の名門貴族からなっていた)は、自分たちの候補を推した。

 彼らの言い分では、エリザヴェータ・ペトローヴナ(1709~1762)は、婚外子(母はエカチェリーナだが、当時はまだ正式に結婚していなかった)であり、カール・ペーター・ウルリヒはプロテスタントだから不適当というわけだ。

 そこで彼ら名門貴族は、ピョートル大帝の異母兄で共同統治者だったイワン5世の子を即位させることにした。つまり、彼の娘アンナ・ヨアーノヴナだ。彼女は、1710年にクールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルムと結婚し、夫の死後はクールラントの摂政となっていた。

 こうして、アンナは帝位に就くよう招請される。ただし、君主権を著しく制約する「条件」に署名することを求められた。これは、最高枢密院の面々が作成した文書だ。その「条件」によると、アンナには、予算を独自に編成し、宣戦布告し、後継者を指名する権利がなかった。実は、彼らは彼女を傀儡にするつもりだった。

 しかし、戴冠式のためにモスクワに着いたアンナは、世論と新興貴族が自分を支持していることに気づいた。そして彼女は、近衛連隊の力も利用する。

  スペイン大使デ・リリアはこの事件を次のように記している。「近衛連隊の将校その他の大勢が、女帝の前で叫び始めた。自分たちは、我らが君主に対し何人も法を押し付けぬことを望む。女帝陛下は、以前の皇帝陛下と同様に専制君主であるべきだ、と」

 その結果、アンナは、すべての高官の前で、不都合な「条件」を破り捨て、専制を始める。

イワン6世(およびその母アンナ・レオポリドヴナ〈イワン5世の三女の娘〉)

 アンナ・ヨアーノヴナは、ロシアの帝位がイワン5世の系統から外れないように努力し、死の数日前に、自分の姉エカチェリーナの孫にあたる幼いイワン・アントーノヴィチを後継指名した(女帝アンナは、イワン5世の四女である)。

 女帝アンナの姉エカチェリーナは、メクレンブルク=シュヴェリーン公カール・レオポルトに嫁ぎ、娘アンナ・レオポリドヴナを生んだ。そのアンナがブラウンシュヴァイク公家の次男アントン・ウルリヒと結婚して生まれたのがイワン・アントーノヴィチ(イワン6世)だ。

 イワン6世は 1740 年、故女帝アンナの寵臣エルンスト・ビロンの摂政の下で皇帝に即位した。しかし、その2週間後、近衛兵がビロンを逮捕し、アンナ・レオポリドヴナを皇帝の摂政と宣言する。

 しかし、この治世は1年しか続かず、権力は、エリザヴェータ・ペトローヴナ(ピョートル大帝の次女)に奪われた。ブラウンシュヴァイク公家の人々――アンナ・レオポリドヴナ、その夫アントン・ウルリヒ、この夫妻の子であるイワン6世、およびその他の子供たち――は、ロシア北部に追放された。さらにその後、イワン6世は両親から引き離され、シュリッセリブルク要塞監獄の独房に入れられた。後年、既にエカチェリーナ2世の治世となっていた1764年に、救出の試みがなされ、その際に看守らにより殺害されている。

エリザヴェータ・ペトローヴナ(ピョートル大帝の次女)

 ロシア社会の一部は、女帝アンナの後、帝位が幼いイワン6世に引き継がれたことに憤慨していた。ピョートル大帝の実の娘、エリザヴェータ・ペトローヴナが健在だったからだ。彼女は若い頃から女帝アンナにより宮廷から遠ざけられていた。アンナはピョートルの娘が玉座を奪うのではと恐れていた。

 また、女帝アンナの治下、ロシアは主にドイツ人の側近――エルンスト・ビロン、ブルクハルト・クリストフ・ミュンニヒ元帥、最高文官(カンツレル)アンドレイ・オステルマンら――によって治められていたため、エリザヴェータは、「真のロシア人」としても支持された。

 エリザヴェータ・ペトローヴナは、父ピョートルが創設したプレオブラジェンスキーとセミョーノフスキーの両近衛連隊の将兵と良好な関係を保っていた。彼女は兵舎を訪れ、近衛兵の祝日に参加し、子供たちの洗礼に代母として立ち会った。

 1741 年 11 月 25 日夜、エリザヴェータは、帝都サンクトペテルブルクのプレオブラジェンスキー近衛連隊の兵舎にやって来て、かの有名な言葉を発した。

 「諸氏よ、私が誰の娘か知っているであろう、私の後について進め!」。兵舎から彼女は、近衛兵とともに冬宮にまっしぐらに進み、そこでアンナ・レオポリドヴナと夫アントン・ウルリヒを逮捕した。

 幼帝イワン 6 世(当時、わずか1歳2か月だった)が新女帝エリザヴェータのもとへ連れてこられたとき、彼女は赤子を腕に抱き、「幼子よ、そなたにはいかなる罪もない!」と言った。とはいえ、それは、「幼子」が生涯虜囚の身となる運命を妨げるものではなかった。しかも、エリザヴェータ以後の皇帝はいずれも、廃帝イワン救出の計画があれば即刻彼を殺すよう命じていたという。それがエカチェリーナ2世時代の1764年に実行されることとなる。

エカチェリーナ2世(大帝)

 ピョートル大帝の娘エリザヴェータ・ペトローヴナは、帝位を父の血統に保ちたいと考えた。そこで、既に生前から、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・ペーター・ウルリヒ(将来のピョートル 3 世)を後継指名した。彼は 1742 年以来、ロシアに移り住んだ。その妻がゾフィー・アウグスタ・フリーデリケだ。彼女は、神聖ローマ帝国領邦君主アンハルト=ツェルプスト侯の娘で、将来エカチェリーナ2世となる。

 ピョートル3世の治世は、1761 年 12 月~1762 年 6 月の半年間にすぎなかった。しかし、その治世中において彼は、プロイセンと和平を結ぶことで軍隊を、教会の土地・財産の国有化を宣言することで聖職者をそれぞれ敵に回した(当時は七年戦争のさなかで、一時ロシア軍は、プロイセンを敗北の瀬戸際まで追い詰めた)。 

 1762年の時点でエカチェリーナは夫と既に公​​然と対立しており、周囲に支持者を集めていた。そのなかには重臣だけでなく、プレオブラジェンスキーとイズマイロフスキーの両近衛連隊もあった(後者は、エカチェリーナの同調者キリル・ラズモフスキーが率いていた)。

 クーデターは、 1762 年 6 月 28 日に起きた。皇帝ピョートル 3 世は郊外におり、「名の日」(自分の守護聖人の日)を祝っていた。その間、サンクトペテルブルクでは近衛連隊、元老院、ロシア正教会を統括する最高機関「シノド」(聖務会院)が、新帝エカチェリーナに宣誓していた。

 ピョートル3世が自分の廃位について知ったのは、既に事が成った後のことだ。その後数週間、権力を取り戻そうと狼狽しつつ及び腰で試みた後、彼は、退位に署名した。これは、1762 年 7 月 12 日のことで、7 月 16~17 日に皇帝は不透明な状況のもとで死んだ。エカチェリーナが予め夫の殺害の企てを知っていたかは不明のままだ。

 即位の宣言には、次のように述べられていた。すなわち、ピョートル・フョードロヴィチ(ピョートル3世)を廃した根拠は、彼が国教を変えようとし、プロイセンと講和したことである、と。そして、(後継者であるはずの、ピョートルの息子パーヴェルを差し置いて)自分が即位する権利を正当化すべく、エカチェリーナは、「すべての忠実な臣民の望みは明確であり、偽りがない」と述べた。こうして、1762 年 10 月、エカチェリーナ2世はモスクワで戴冠した。