下の写真は、集団農場の会議に出席するヨシフ・スターリンとヴャチェスラフ・モロトフ首相。
外国人もソ連で行われていることに大きな興味を示し、多くの作家がソ連を訪れ、この異国の共産主義の土地について書いた。その中のひとりが、オーストラリアの共産主義者であるキャサリン・スザンナ・プリチャードである。これは集団農場の農夫たちと写真を撮る彼女である。
1933年、白海・バルト海運河(ベロモルカナル)の野心的建設事業は終了し、オープン記念イベントが開催された。
白海とバルト海を結ぶ227キロメートルにも及ぶ運河建設に要した期間は2年にも満たなかった。
ベロモルカナルの暗部は、この運河は強制収容者の囚人による強制労働によって建設されたことである。
そしてこの建設作業は1万2000人の収容者の命を奪った。
1933年は大規模な産業プロジェクトが立ち上げられ、全国に製鉄所が作られた年である。写真家たちは、産業「ポエム」に感銘を受けた。
1933年、ソ連政府は自動車の運転を普及し、AVTODOR協会は、ソ連を横断する大々的なカーラリーを開催した。
ソ連前期に始まった性革命はすでに終焉し、ソ連は慎ましやかな国に変わろうとしていた。しかし、それでも裸になることはごく普通のことであり、人々は気軽にヌードで日光浴を楽しんだ。
当時のもっとも有名なソ連の女優、リュボフィ・オルロワはソ連初のミュージカル「陽気な連中」で半裸姿を披露した。映画は翌年、公開された。
ソ連のプロパガンダは、若者たちを共産主義の然るべき建設者とするべく、健康的で活力に満ちた身体とライフスタイルを推奨した。
下にあるのは、ウズベク語で書かれたウズベク社会主義共和国の産業と綿文化に関する社会主義的モットー。
1933年はモスクワっ子たちがスハレフ塔を見ることができた最後の年であった。翌年には、スターリンのモスクワ再開発プロジェクトによって、解体された。
1933年、モスクワの地下鉄の建設が始まった。トンネルの多くが、開削工法で行われた。つまり、土留めを行い、志保工をかけながら掘り下げていって地下鉄を作り、後で土砂を埋め戻すという方法であった。地下鉄建設は権威ある仕事とされ、多くの人がこの歴史的事業への参加を希望した。
1930年代、飛行士らは成層圏への飛行を夢見るようになる。下の写真は成層圏気球USSR-1号の乗組員。
1930年代、反宗教政策を推し進めていたソ連政府は、反仏教、反イスラムキャンペーンを開始し、同時に正教会の聖職者に対する締め付けを行った。そこで1930年代末、ほとんどの聖職者は粛清され、教会や聖像画は破壊され、聖書は焼かれた。下の写真はブリャーチヤの仏教僧。
劇場の庭で台本を読むモスクワのスタニスラフスキーオペラ劇場の俳優たち。真ん中に座る帽子を被った人物が、伝説的なコンスタンチン・スタニスラフスキー。
1933年までに、農業人民委員会のビルの建設作業が終了した。アレクセイ・シューセフが構成主義で設計したもので、今もソ連建築の記念碑的存在であり続けている。写真家のアングルから、このビルの形がいかに変わった斬新なものであったかが分かる。
ソ連政府は農民や労働者を含めたさまざまなタイプの人々を対象に、定期的な課題を遂行した。その課題には多くの記者が必要となったため、この職業に就く人が増えた。下の写真は主要なプロレタリア作家マクシム・ゴーリキーの講義に耳を傾ける農村の記者たち。
またより多くの人々にとって写真が身近なものになった。カメラも以前ほど重くなくなり、プロのカメラマンもアマチュアのカメラマンもソ連の生活を映した驚くべきスナップを撮った。
この時代の象徴的なカメラマンの1人、アレクサンドル・ロトチェンコ。アヴァンギャルド写真のパイオニアであった。下の写真は、ベロモルカナルでの作業を記録するロトチェンコ。
ラジオの修理をしようとしている子どもたち。
ポーズをとるウズベクの男工。
カレリア地方のボートを漕ぐ農家の子ども。
一日の作業の対価である穀物を抱えるコルホーズ(集団農場)労働者。
農村で糸を紡ぐ人。
ポーズをとる祖母、母と子どもたち―ある村の三世代が一緒に写真におさまる。
集団農場での生産に従事する女性たち。
労働者の日のデモ。
農夫たちが買い物をする市。
薬局。
ピオネールの挨拶。
機械作業場で働く労働者。
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