ピテール・ファン・デル・ウェルフ『ピョートル大帝の肖像画』、1697年
Pieter van der Werffピョートル大帝(1世、1672~1725)は、ロシアの何世紀にもわたる伝統から国民を急激に脱却させたが、このことにより、彼らはこんな風説を信じるようになった。
すなわち、彼らの「元のツァーリ」は、彼の有名なヨーロッパ大旅行、1697~1698年のいわゆる「ピョートル1世の大使節団」の後で、別の誰かにすり替わった、と。
「最高枢密院」(ピョートル大帝の死後に創設された諮問機関で、事実上の最高権力だった)の文書は、ロシア人の多くがこの噂を広めていたことを示している。つまり、「本物の」信心深いロシア人のツァーリの代わりに、ドイツ人のスパイがロシアに戻ってきたというのだ。
この話はなるほど面白くはあるが、事実無根だ。ピョートルの旅行とすべての行動は、複数の側近、および欧州の外国人に目撃され記録されている。要するに、ピョートル・ロマノフは、欧州を旅して、つつがなく帰還した。
ドミトリー・ベリューキン『大貴族たちの顎鬚を切り落とすピョートル』、1985年
Andrey Solomonov/Sputnik欧州大旅行から戻った後、ピョートルは、モスクワのプレオブラジェンスコエ宮殿に大貴族たちを集め、彼らの顎鬚を自らの手で切り落とした。しかも、これは何度も行われた。このできごとは、ロシアではピョートルの「髭改革」として有名だ。
しかし、顎鬚を剃ったり切り揃えたりすることは、ロシア人にとって目新しいことではなかった。モスクワの若い洒落者は、ロシアで働いたり商売したりするためにやってきた外国人、主に英国人から、顎鬚を切る習俗に接した。つまり、ロシア人の一部は、早くも17 世紀初めには髭を切ろうとしたのだが、実は法律で許されていなかった。顎鬚を切る者は、正教会によって非キリスト教徒とみなされたからだ!
だから、ピョートル大帝が大貴族の顎鬚を切ったとき、彼はロシアの旧習を墨守する人々の外見を変え、より欧風にしたのは確かだ。とはいえ、ロシアで髭剃りを「発見」したのは彼が初めてではない。
イワン・ニキーチン『死の床のピョートル大帝』
Ivan Nikitinピョートルは、生涯放縦な性生活を送り、そのことを、二人目の妻、後のエカチェリーナ1世に隠しさえしなかった。6人以上の愛人が知られており、しかも、当時の文書から判断すると、無数の「ちょっとした情事」があった。
たとえば、1717 年に彼は、療養目的で滞在していた温泉地のスパ(ベルギーのリエージュ州にあり、「スパ」の語源となった)からエカチェリーナに、次のような手紙を書いている。
「鉱水を飲む治療をしている間、医者は私に、『家での気晴らし』を禁じた。だから、私は『女』をあなたのところに送る。彼女が私の傍にいると、私は禁欲できないからだ」。ピョートルが生涯のある時点で性病にかかった可能性はある。
ピョートルの死因は、1722~1723 年頃に現れた排尿の問題に関係している。彼は結局、膀胱炎に続く合併症で亡くなったが、検死は行われなかった。
ピョートルの診断を研究した現代の医師たちは見解が一致している。つまり、これは梅毒ではないが、淋病による感染症で、慢性肝炎または淋菌性尿道炎だった可能性がある。しかし、具体的な答えは見つからなかった。
映画『ピョートル1世』のワンシーン
Vladimir Petrov/Lenfilm, 1937ピョートルは確かに精神的に何か問題を抱えており、それは彼の同時代人たちには明らかだった。ロシアでも、欧州旅行においても、多くの人々が彼の「発作」を目撃した。駐ロシア・デンマーク公使のジュエル・ジャストは、それについて次のように述べている。
「彼の顔は、はっきり青ざめ、歪み、醜くなった。彼は顔をしかめたり、身体を動かしたり…頭を回したり、目玉をぐるぐるさせたり、腕や肩をひきつらせたりした…。これは、怒ったとき、悪い知らせを受け取ったとき、動揺したとき、または深く考え込んだときによく起きる」
こうした「発作」は別として(それは単なる神経性のチック症状だったのだろうか?)、ピョートルは、自分の命令に従わなかった者への憤り、怒りの爆発、残酷さで有名だった。
この種の「発作」は癲癇の徴候のこともある。しかし、癲癇ならば、時とともに進行し、知的障害を引き起こしかねない。これは、広大な国をほぼ独力で、最後の日まで支配したピョートルには当てはまらない。
彼の神経性のチック症状と激しい気性は、10 歳のときに彼が受けた深刻なトラウマに起因する可能性が高い。そのときに彼は、ツァーリの近衛兵「銃兵」が蜂起して叔父や親族を殺害するのを目の当たりにした。
『ピョートル大帝時代の宴会』、1858年
Stanisław Chlebowski「彼はコニャックを大量に飲み、生得の激しい気性をいよいよ荒々しいものにした。しかも彼は、自分でコニャックを造り精留した」
ソールズベリー司教のギルバート・バーネットは、ピョートル大帝についてこう書いている。ピョートルの大酒は、ロシア内外で有名だった。外国の使節や外交官は、ロシアに派遣された場合、間違いなく皇帝ピョートルといっしょに飲む必要があることを知っており、それは厄介な仕事だった。
「皇帝は激怒し、食卓についている全員に、罰として彼の目の前で、ハンガリー・ワインを巨大な杯で飲み干すように命じた」
フリードリヒ=ヴィルヘルム・ベルヒホルツはこう記している。彼はホルシュタイン公国の貴族で、ピョートル大帝の知遇を得ており、彼の隣席のもとで何度も酩酊することを強いられた。
ピョートルは痛飲することを恥じず、しばしば泥酔し前後不覚になったことを自ら認めている。
「私は、バッカスの賜物に大喜びしたので、いつ出発したのか覚えていない。私が困惑させたすべての人、とくに私の出発に居合わせた人に、この不体裁を水に流すようお願いしたい…」。ピョートルは、側近でロシア海軍の基を築いたフョードル・アプラクシン伯爵への手紙にこう記している。
1717 年夏、ピョートルは、温泉地のスパで 1 か月を過ごした。ツァーリは、フランスでの長期滞在(そして多数の豪華なディナー)の後で、ミネラルウォーターを飲んで保養していた。風変わりなのは、彼のミネラルウォーターの飲みっぷりだ。
「しばしば彼は、途轍もない量のミネラルウォーターを飲み、いつもそれをワインと混ぜていた」。こんな目撃談があった。
これらの多数の証言から判断すると、ピョートル大帝がほぼ毎日酔っ払っていたことは間違いあるまい。しかし、それは彼が偉大な指導者となり、大国を統治することを妨げなかった。
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