玉座がロシアに現れたのは、16 世紀半のようだ。それは、ロシアがモスクワ大公国(その後、国名はロシア・ツァーリ国となる)とその君主の周りに統一され始めたときだった。玉座は戴冠式で用いられ、王宮の玉座の間を飾った。それぞれの君主は、自分独自の玉座を作ろうとした。この記事では、現存するいくつかの玉座をご紹介しよう。
古代・中世ロシアでは、「玉座」に当たるのは、特別な「ツァーリの席」だった。大聖堂内部の、尖塔を戴いた、特別に設えられた椅子だ。ここでツァーリは祈った。現存するものの中で最も有名なのは、モスクワのクレムリンのウスペンスキー大聖堂にある「モノマフの玉座」だ。それは 1551 年に遡り、イワン雷帝が自分のために設えた。伝えられるところでは、この種の最初の玉座は、ビザンチン(東ローマ)皇帝コンスタンティノス9世モノマコスがロシアに送ったという。
玉座は木製で、象牙のプレートで覆われており、『聖書』のソロモン王の玉座に基づいている。彫刻が施されたプレートには、ダヴィデ王の生涯の各場面が描かれている。背もたれは、「双頭の鷲」を誇らしげに戴いており、これは金色で椅子を飾っている。
この玉座はイワン雷帝のものだったと考えられるが、その最初の言及は、彼の死後数十年経ってからで、既に17世紀半ばのことだ。玉座の制作者とその出身国も不明のままである。ロシア帝国最後の皇帝、ニコライ 2 世の戴冠式では、皇太后マリア・フョードロヴナ(つまりニコライ2世の母)がこれに座していた。
この玉座は、サファヴィー朝ペルシャのアッバース1世(大王)から、リューリク朝の断絶後に即位したボリス・ゴドゥノフに贈られた可能性が高いとみられている。背もたれが東方風なのは、そのためだろう。ペルシャの名匠たちは玉座を黄金で豪華に装飾し、そこに、ターコイズ、トルマリン、ルビーなどの宝石を散りばめている。ベルベット地にはオリエンタルな花柄が施されている。これは、ロシアで現存する最も古い儀式用玉座の 1 つと考えられる。
これも、アッバース大王からの贈り物だ。ただし、ロマノフ王朝初代ツァーリ、ミハイル・フョードロヴィチへ贈られた。17世紀初めに、ペルシャの職人によって作られている。木製のベースには、金のプレートが張られ、宝石が散りばめられている。数百ものルビー、トルマリン、サファイア、真珠などだ。
ミハイル・ロマノフは、遠征を含め、至るところに玉座を持参したとみられる(そのために金と宝石の一部が失われたらしい)。このツァーリの死後長い間、玉座は、クレムリンのウスペンスキー大聖堂に置かれ、戴冠式で(おそらく皇后の椅子として)使われた。また、最後のロシア皇帝ニコライ2 世が 1896 年の戴冠式に選んだのはこの王座だった。
この壮麗な玉座は、17 世紀後半にペルシャの職人によって作られた。歴史家にとっては、この玉座がどのようにしてツァーリ、アレクセイ・ミハイロヴィチのものとなったのかは謎のままだ。一説によると、それはペルシャのシャーからの贈り物であり、他の説によれば、アルメニアの貿易会社からの贈り物で、また別の説によると、ロシアのツァーリが購入した。いずれにせよ、この玉座を彼が手にした後、イランの商人がロシアで通過貿易を行うことの可否について、交渉が始まっている。
サンダルウッド製の玉座は、金と銀のプレートで裏打ちされ、千個近いダイヤモンドで飾られている。背もたれには、使徒ペテロと聖ニコライが描かれている。これは最も豪華な玉座だとみなされており、アレクセイ帝の後も、ミハイル・ロマノフのそれとともに戴冠式でしばしば用いられた。
この珍しい銀製の玉座は、1682~1683 年にユニークな戴冠式のために作られた。ロシア史上、2 人のツァーリが同時に同等の権利を持って王位に就いたのは、これが最初で最後だ。二人ともアレクセイ・ミハイロヴィチの息子だが、母は違った。両者の背後にはそれぞれ、即位を後押しした有力な名門貴族が控えていた。
イワンは 5 歳年上だったので、帝位継承の権利はより大きかったが、病身で虚弱な子供だった。 そこで、元気溌剌としたピョートルがともに即位させられたわけだ。しかし実は、2 人の幼帝の背後で、姉ソフィアが統治していた。王座には特別な窓が穿たれ、ソフィアはそれを通して弟たちに「助言」を囁いた。
金色の玉座はバロック様式で作られ、金属に型押しが施されている。「双頭の鷲」、ライオン、ユニコーン、王冠、権標(十字架の付いた黄金の球)など、権力の象徴で豪華に装飾されている。そして座る部分には、ベルベットが張られている。
1731 年、この玉座は、女帝アンナ・ヨアーノヴナのために、ニコラス・クラウゼンによってロンドンで作られた。そして、サンクトペテルブルクの冬宮の「大玉座の間」で、天蓋付きの特別な台座に置かれていた。玉座の背もたれ(およびその背面)は、「双頭の鷲」の刺繡で飾られている。
女帝エリザヴェータ・ペトローヴナは、豪奢な装飾を好み、バロック様式とロココ様式をこよなく愛した。このオーク材の玉座が彼女のものだ。1742年製で、金の彫刻が施され、ベルベットで覆われている。
パーヴェル1 世は、大変な儀式好きだった。彼のいくつかの玉座は現存している。それというのも、各宮殿に独自の玉座があったからだ。サンクトペテルブルク近郊のガッチナにある、彼が最も愛した離宮には、マルタ騎士団の十字架と王冠をイメージした玉座があった。パーヴェル1世は、ロシア皇帝であっただけでなく、マルタ騎士団の総長でもあった(*1798年にナポレオンがマルタ島を奪うと、マルタ騎士団総長はオーストリアに逃れ、抗議の印として総長の地位をパーヴェル1世に譲った――編集部注)。
冬宮では、パーヴェルは別の玉座に座していた。宮廷建築家フリスチアン・メイエルが制作した。ただし、どちらの玉座も、1731 年製の「皇帝の大玉座」のコピーと見ることができる。
パーヴェルはまた、マルタ騎士団の総長としての専用の椅子も持っていた(ここには「双頭の鷲」はない。脚は2羽の鷲をかたどっているが)。この玉座は、ヴォロンツォーフ宮殿のマルタ礼拝堂のために、1798 年に建築家ジャコモ・クヴァレンギが制作。この宮殿は、パーヴェルがマルタ騎士団に贈ったものだ。
19 世紀を通じて、アレクサンドル 3 世の前の皇帝たちは、これ見よがしでない、古典的な欧風の玉座を用いていた(背もたれに美麗に刺繍されたモノグラムは別として)。一方、アレクサンドル3世は、「ロシア風」を流行らせ、ルーツに回帰させたため、このような玉座が、ガッチナ宮殿の玉座の間を飾った。古代ロシアのツァーリの衣装さながらの刺繍が施され、モノグラム「A」が鮮やかだ。
ロシア帝国最後の皇帝、ニコライ 2 世にとって、歴史の連続性は重要だった(とくに、彼の治世の1913 年にロマノフ王朝が 300 周年を迎えて以降はそうだった)。かくして、ロシア・ツァーリ国のツァーリの玉座を模して、彼のためにいくつかの玉座が作られた。たとえば、こうしたアームチェアが、大クレムリン宮殿の「聖アンドレイの間」を飾っていた。ニコライは、自身の戴冠式のために、ロマノフ朝初代ツァーリ、ミハイル・フョードロヴィチの本物の玉座を選んだ。
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