モンゴル帝国はいかにロシアを征服したか(絵画で見る)

Nikolay Kulandin/Russian Look
 百戦錬磨の残虐な、雲霞のような大軍が東方から襲来し、ロシア全体を荒廃させただけでなく、数世紀にわたってロシア人の意識を恐怖で満たした。

 「我々の罪のせいで、見知らぬ民が現れた。信仰をもたぬモアブ人を思わせるが、彼らが何者であり、どこから来たか、いかなる言葉を話しているのか、いかなる種族に属し、いかなる信仰をもつのか知る者はなかった」。1223年にロシア国境近くに初めて現れたモンゴル軍について、年代記はこのように記している

 しかし、モンゴル帝国は、この時点でのロシア侵略を計画していたわけではない。ジェベ、スブタイ両将軍率いるモンゴル軍の東ヨーロッパ平原への遠征は、征服というよりも偵察だった。

チンギス・カン

 カフカス山脈を越えた後、3万強のモンゴル軍は、黒海の北方の草原に達し、テュルク系遊牧民のポロヴェツ族を攻撃した。その土地の向こうには、ロシアの諸公国が割拠していた。

 ポロヴェツ族とロシアの諸侯の関係は、友好的とは言い難かったが、それでも公たちは、ポロヴェツ族の長コチャン・カンの支援要請に応え、共同してモンゴルと戦うことに決めた。

 1223 年 5 月 31 日に「カルカ河畔の戦い」(戦場は今のウクライナ東部に位置する)が行われ、ロシア・ポロヴェツ軍の完敗に終わった。

 生き残ったのはおよそ1割の戦士にすぎず、少なくとも9人の公が戦死し、多数の大貴族がたおれた。惨敗の原因は、敵の過小評価、指揮系統の不統一、そして各指揮官の行動の齟齬だった。

『カルカ河畔の戦い』

 しかし、モンゴル軍は、勝利の後、東に去った。その後何年か経つうちに、ロシア人の心に沁み込んだ恐怖と、なめた苦難の記憶は次第に薄らいでいった。だが、1237 年、強大な帝国は再び自らの存在を想起させる。

 チンギス・ハーンの孫バトゥが率いた大規模な「バトゥの西征」には、すでにこの地域を十分探っていたスブタイが副将格として加わり、モンゴル帝国の14人の王子(チンギス・ハーン直系の子孫)も参加して、それぞれが騎兵の「トゥメン」(万人隊)を従えていた。もっとも、一説によれば、モンゴル軍の兵数は4万を超えなかった。

 いずれにせよ、当時としては膨大な軍勢が西方に向かっていった。彼らは、乗馬と弓術を完璧に身につけていたほか、征服した中国の攻城兵器でさらに強化されていた。こうした恐るべき大軍を迎え撃たねばならなかったのがロシアの諸公国だが、彼らは際限なく内訌に明け暮れ、こんな存亡の危機に直面しても団結できなかった。

カタパルトを使うモンゴル軍

 モンゴル軍の途上にあったのがリャザン公国だ。彼らは、隣国のウラジーミル・スーズダリ大公国とチェルニーゴフ公国に助けを求めた。しかし、前者は派兵を遅らせ、後者は拒絶した。リャザンが1223年に対モンゴル戦へ参加しなかったとの理由で。

 援軍がなかったにもかかわらず、リャザンの人々は抗戦を決定し、全財産の10分の1を差し出せというモンゴルの最後通牒にこう答えた。「我々が皆死んだら、すべてがお前たちのものだ!」。リャザンは、5 日間の包囲の後、1237 年 12 月 21 日に陥落した。

 「そして、街には一匹の生き物も残っておらず、全員が一度に死の盃を飲み干し、たおれた。呻き声も泣き声も聞こえなかった。父と母が子供のために、子供が父と母のために、兄弟が兄弟のために、親類縁者のために、全員が一緒に死んでいった。これはすべて我々の罪ゆえに起きたのだ!」。『バトゥのリャザン襲撃の物語』にはこう記されている。

リャザンの包囲

 1238 年 1 月 1 日、コロムナ付近の戦いで、モンゴル軍は、リャザン救援に向かったウラジーミル大公の軍を撃破した。しかし、侵略者はその日、大きな損失を被り、勇名を馳せた指揮官コルゲンが戦死した。彼は、チンギス・ハーンの息子の一人であり、ロシア遠征中に亡くなった唯一のチンギス一族だ。

 モンゴル軍がさらに進撃していくと、リャザンの貴族エヴパチイ・コロブラトの「小部隊」が突然攻撃をしかけてきた。この部隊は、故郷の都市の包囲戦に間に合わなかったのだった。寡兵をもってコロブラトは敵軍に痛打を与え、後衛を撃破しさえした。バトゥ自身が、この勇敢な戦士に目を止めた。エヴパチイが戦死すると、感嘆したバトゥは、遺体を捕虜となっていたリャザン住民に引き渡し、彼らを解放するよう命じたという。

エヴパチイ・コロブラト

 モンゴル軍は、ウラジーミル・スーズダリ大公国を炎と剣をもって席巻し、モスクワを含む多数の村や都市を荒廃させた。2 月 7 日、公国の首都ウラジーミルも陥落し、その君主ユーリー・フセヴォロドヴィチ大公の家族も燃え盛る炎の中で亡くなった。このとき、大公自身は市内にいなかったが、シチ河畔で軍を集めて戦いを挑んだ。

 だが、3 月 4 日に、ブルンダイ麾下のモンゴル軍に敗れ、ほぼ全滅し、大公もともに戦死した。こうして、ロシア北東部全体がモンゴル軍に征服された。

 しかし、強大なウラジーミルとの戦いで、侵略者は疲弊し、その攻勢は徐々に鈍り始める。バトゥは危険を冒さず、巨大な商業都市ノヴォゴロドは攻撃しなかった。また、彼の軍隊はスモレンスクで食い止められ、小都市コゼリスクの包囲は 50 日以上に及んだ。

 やっとのことでコゼリスクが落ちると、バトゥは激怒して、すべての住民を殺し(年代記によると、12歳の公ワシリーは「血のなかで溺れた」)、この「邪悪な都市」を地上から抹殺するように命じた。

 モンゴル軍は休養する必要があり、ロシアへの攻撃を再開したのはようやく翌年のことだった。今回は、南部の諸公国が破壊された。1239 年 3 月 3 日、難​​攻不落とみなされていたペレスラヴリが占領され、10 月 18 日にはチェルニーゴフ、12 月 6 日にはついに古都キエフが陥落する。

 「この都市は、かつては巨大で、人口も膨大だったが、今ではほとんど何もない。200 軒ほどの家屋が散在しているだけだ…」。1245 年に、かつて繁栄を誇ったキエフ・ルーシの旧首都を訪れたフランシスコ会のイタリア人、ジョバンニ・デ・プラノ・カルピニはこう書いている。

 モンゴル軍は、ガリツィアとヴォルイニを荒地にした後、ハンガリーとポーランドに侵入した。

戦死したユーリー2世(ウラジーミルの大公)の遺体

 こうしてロシアは、まさに惨たんたる敗北を喫した。膨大な数の人々が殺されたり、捕虜になったりし、我々に知られている74都市のうち49都市が破壊され、そのうち14都市は復興できず、15都市は小集落に転落した。経済と文化は甚大な打撃を被り、火災で多くの貴重な写本が焼失し、多数の教会、聖堂が廃墟と化した。

 モンゴル帝国の後継国家、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)は、クリミア半島からシベリアまで広がる強大な国で、ロシアを直接は統治せずに、政治的および経済的権力を確立した。今や、この国のハンは、ロシアで誰がいかに統治すべきかを決定した。そして公たちは、自分たちの土地を治めるために、「ヤルルイク」(許可証)をもらいに、ハンのもとへ伺候することを余儀なくされた。

貢税を集めたバスカク(モンゴルの代官)

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