ツァーリの暮らしにおける「東方風」の要素:キプチャク・ハン国の慣習から何を採り入れたか

Russia Beyond (Photo: Michael Nicholson/Corbis/Getty Images; Public domain)
 モスクワ大公国の君主は、モンゴル帝国の流れをくむジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)に勝利し、ついに「タタールのくびき」を脱したが、その日常生活や儀式においては、東洋風の慣習や事物を多く採り入れていた。それらは、モンゴル・タタールとの交流を通じて、ロシアの生活に入ってきたものだ。

 ツァーリとして初めて戴冠したイワン4世は、彼の生前の16世紀から既に「雷帝」と呼ばれていた。当時のロシア語では、この言葉は、「強力な」や「偉大な」に近い意味であり、同時代の人々にとっては、このツァーリがそうした通称を得た理由は明らかだった。まさに彼の治世において、分裂したジョチ・ウルスの「欠片」、カザン・ハン国とアストラハン・ハン国が征服されたからだ。

 ツァーリは、この偉業が文明世界にあまねく知れわたることを望んでいた。しかし、国際報道機関のないこの時代、どうすればそんなことが可能か?当時、マスコミの役割は、外国の大使らの至急報や記録が果たしていた。では、彼らに偉業を印象づけるには?もちろん、贅沢三昧な大盤振る舞いだ!ロシア人が採り入れた東洋風の儀式や習慣がとくにはっきりと現れたのは、こうした宴会だった。

征服した国々の王たちを仕官させる

「レーゲンスブルクにおけるモスクワ大公国の神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世への外交使節」、1567年 

 ツァーリの宴会について、イギリスの匿名の商人が次のように記している。彼は、1557年、イワン4世の饗宴に連なった。

 「正餐の時が来ると、我々は皇宮の食堂に案内された。…ある食卓の最も高い場所には、陛下、その弟君、そして捕虜となったカザンのハンが鎮座していた。その2アルシン(*1アルシン= 0,7112 м)下には、ハンの息子が座っていた。彼は5歳の幼児だ。そして、3番目の食卓には、いわゆるチェルカスイがいた。これは、ツァーリに仕えて敵と戦う者たちだ」

 雷帝にとっては、次の点を外国人たちに見せつけることが重要だった――実際にカザン・ハン国が征服され、その最後のハンがロシアのツァーリに仕えていることを。

 英国人は、ハンのヤーディガール・ムハンメドを「虜の王」と呼んでいる。ヤーディガールは、1552年にカザンが占領された後、イワン4世に仕え、シメオン・カサエヴィチの名で正教の洗礼を受けた。

 ツァーリの饗宴において彼は、最高の名誉を与えられた。すなわち、ハンとして彼は、ツァーリと同格であるとみなされ、その食卓に座らされた。外国の大使らは、この慣習を再三目にしている。たとえば、1586年、雷帝の息子、フョードル1世は、クリミア、カシモフ、シビルの各ハン国の王子とともに、大使を引見した。

 英国人はまた、雷帝の饗宴にチェルカスイも連なっていたと述べている。これは、チェルケス人とカバルド人の祖先であり、16世紀半ばにカスピ海沿岸を領有しており、ロシアのツァーリの権力が自分たちに及ぶことを認めていた。

  この頃までに、ロシアとチェルカスイを含めてタタールの貴顕との交流は非常に緊密になり、多数の婚姻関係が結ばれた。これは当然、旧ジョチ・ウルス領とロシアの関係を強めた。雷帝自身にしてからが、チェルカスイと姻戚関係にあった。

征服地の貴顕と姻戚に

シメオン・ベクブラトヴィチ、16世紀後半~17世紀初期

 雷帝の二人目の妻は(彼女が病没するまで8年間連れ添った)、チェルカスイの王女だったマリヤ・テムリュコヴナだ(正教に改宗する前の名は、クチェニェイ)。彼女の甥は王子サイン・ブラトだ。正教に改宗し、シメオン・ベクブラトヴィチと名乗った。彼女の兄サルタンクルも、改宗してミハイル・チェルカスキーとなった。ミハイルは、モスクワ大公国の軍司令官となり、シメオンは雷帝の求めにより、1575年に11か月間、「全ルーシの大公」として形式的にロシアを治めた。

 征服地の貴顕と姻戚になることは、ジョチ・ウルスのハンたちがロシアにもたらした東方の伝統だ。話は14世紀に遡るが、ジョチ・ウルスの全盛期を築いたウズベク・ハンは、妹コンチャカを正教に改宗させてアガフィアを名乗らせ、モスクワ大公ユーリー・ダニーロヴィチ(ユーリー3世)に嫁がせた。

 ソロモニヤ・サブーロワは、イワン4世の父、モスクワ大公ワシリー3世と結婚した(サブーロフ家は、ロシアに出仕したタタール貴族の末裔)。一方、ワシリー3世は、妹エヴドキヤをカザン・ハンの息子、クダイ・クル王子に嫁がせた。

 ワシリー3世の二人目の妻は、エレナ・グリンスカヤだ。グリンスキー家の公たちは、自分たちはジョチ・ウルスの軍司令官ママイの息子マンスルの末裔だと称していた(*ママイは、クリコヴォの戦いで、モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイに大敗した)。イワン4世の母親になったのがエレナ・グリンスカヤだ。

征服した君主の冠を利用する

ロシア・ツァーリ国の「帽子」

 モノマフの帽子(モノマフの冠)は、15世紀末以来、モスクワ大公の主な王冠となり、彼らの権力がキエフ大公の流れを汲んでいることを象徴した。

 しかし、外交使節の引見に際しては、他の王国の王冠(アストラハン、カザン、シビルのハン国など)も、玉座の隣の台や机に置かれた。これらの王国に対するロシアのツァーリの権力を強調するためだ。また、これらの「帽子」は、ツァーリの結婚式にも必ず用いられた。

ツァーリの皇宮に入る前に武器を預ける

「イワン雷帝。英国の外交使節」ダニレフスキー・エフゲニー作

 ジョチ・ウルスの外交儀礼の伝統から、何人も武器を携えて王宮に入るべからず、という規則をロシア人は採り入れた。そうした規則が、ジョチ・ウルスの首都サライにあった。そのため、ヨーロッパの外交官たちも、常に武器を携えることが彼らの名誉だったにもかかわらず、クレムリンの入り口で剣を手渡すことを余儀なくされた。

外交使節の引見と饗宴を組み合わせる

「グラノヴィータヤ宮殿における饗宴」

 モンゴルの宮殿では、外交レセプションの前に、馬乳酒(クミス)の器が運ばれた。ハン自身がそこから飲み、そして到着した外交使節を含む他のすべての人が飲んだ。ロシアのレセプションでは、逆に「ツァーリの手から」、つまり彼の名において与えられた盃でワインを飲むと、レセプションは終了した。その後、とくに尊重される大使らが皇宮の饗宴に招かれた。

服装や儀礼に東方風のモノを用いる

イワン雷帝(絵葉書、20世紀初期)

 イワン4世をはじめとして、ロシアの君主たちは、タフィアを被っていた。これは、後頭部をしっかりと覆う布製の丸い帽子だ。雷帝は、ジョチ・ウルスを含む当時の軍司令官の習慣にしたがって、頭を剃っていた。長期の遠征では、髪は感染症の温床になりかねないからだ。

 しかし、禿げ頭で出歩くのは無作法だと考えられていたので、ツァーリと大貴族はタフィアを被っていた。必要とあらば、さらにその上に何かを被ることもできたし、そのままでもよかった。家庭用のタフィアはシンプルだが、儀礼用のそれは、金の刺繡や宝石で飾られていた。

 ジョチ・ウルスの特徴は、ロシアのツァーリの儀礼にも保たれていた。「ルインダ」と呼ばれる儀仗兵は、ジョチ・ウルスの弓「サーダク(サイダク)」を持ち、礼装「テルリク」(この言葉もモンゴル起源)を身に付けていた。

 東方風の特徴や物を儀式に採り入れることで、ロシアのツァーリは、新しい臣民すなわち旧ハン国の住民に、次の点を示した。お前たちの新しいツァーリは、お前たちに馴染みのある東方の特徴と権力のしるしを備えているぞ、と。

通信に特別なアラブ式の署名「トゥグラ」を用いる

ピョートル1世のトゥグラ

 ロシアのツァーリは、イスラム世界と通信するための特別な「署名」をもっていた。イスラム世界とはこの場合、ジョチ・ウルスの末裔のハンたちとオスマン帝国のスルタンだ。その署名は「トゥグラ」と呼ばれ、支配者の特別なしるしであり、彼から送られるすべての文書に付された。ツァーリは、東方との外交文書では、イスラム世界で理解される権力の象徴を用いたかった。

 ロシアのツァーリの最初のトゥグラは1620年に現れた。一方、それを通信に用いた最後の君主はピョートル1世(大帝)だ。「ピョートル1世、アレクセイの息子、ロシアのパーディシャー(*ペルシア語で「皇帝」または「君主」)」。ロシア帝国の初代皇帝のトゥグラを、当時のオスマン帝国の言葉から翻訳するとこうなる。

 ロシアのハンたちへの従属関係に終止符が打たれたのは、まさにピョートル大帝の治世だ。最後に支払われた「ポミンキ」(象徴的な貢納)は、クリミア・ハンに対するものだった。

 宮廷の儀式と皇室の服装に関しては、モスクワ大公国の旧習を最終的に捨て去ったのもやはりピョートルだ。彼は、臣下に欧風の服を着せ、新しい宮廷の儀礼、規則を導入した。例えば、ハンの王冠の代わりに、ロシア帝国の王冠が儀式で使われ始めた。

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