馬に乗ったピョートル大帝
Johann Gottfried Tannauerピョートル1世は外交使節(ヨーロッパへの大使節団)からの帰り道、現在のリガのあたりでカラバフ種の馬の手綱を引いている商人と出会った。それは一目惚れであった。皇帝は自身の馬と100以上のオランダ金貨を支払い、その馬が欲しいと願い出た。ピョートル大帝は深く考えず、リゼッタと名付けた。これは当時のお気に入りの女性の名前だったという。しかしこの馬を購入したことは正しかったことが後に分かる。馬はピョートル大帝に忠実で、皇帝のいうことしか聞かなかった。
ポルタヴァの戦い、1709年
Louis Caravaque皇帝は、リゼッタと共に北方戦争やロシア・ペルシャ戦争を戦った。言い伝えによれば、ポルタヴァの戦いでは、ピョートル大帝の命を救ったとも言われる。スウェーデン軍がピョートル大帝に対して発砲したときに、リゼッタはピョートルを脇へ寄せ、砲弾は鞍と帽子を掠めただけであった。
チェスをする皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチ
Vyacheslav Schwarzロマノフ家の屋敷にはいつも多くの動物が飼われていた。しかもその中には、かなり重要な職務を遂行していたものもあった。たとえば、皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチのネコは多くのネズミを捕まえた。このネコは単独のポートレートにもなっている。「モスクワ大公の本物のネコの姿」を描いたのは、チェコの画家ヴァツラフ・ホラルであった。
皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチのネコ
Wenceslaus Hollar / Public domainまたヴャチェスラフ・シュワルツは、「ロシア皇帝の家庭の暮らしのワンシーン」という作品の中で、遊びに夢中のネコを描いている。アレクセイ・ミハイロヴィチに続く皇帝たちも、ネコを飼うようになった。
ピョートル1世はオランダからネコを連れ帰り、またエリザヴェータ・ペトローヴナは、冬の宮殿のネズミを追い払うために、カザンから厳選したネズミ捕りのネコを連れてくるよう指示した。
「カザンの猫」の像
Legion Mediaエカテリーナ2世
V.Borovikovskiy/Tretyakov Galleryエカテリーナ2世は犬が大好きだった。中でももっとも愛したのが、イタリアン・グレイハウンド。小さくて優雅な雄雌のグレイハウンドを贈ったのは、イギリスの医師、トーマス・ディンスデールであった。この2匹のグレイハウンドが皇帝一家の犬の大家族の始まりとなり、エカテリーナ2世はこのトム・アンダーソンとミセス・アンダーソンの間に生まれた仔犬たちを親しい人たちに譲った。皇帝のイタリアン・グレイハウンドはヴォスコンスキー家、ナルィシキン家、オルロフ伯爵の家にも住んだ。犬たちには特別な世話係がつけられたが、散歩はエカテリーナ2世自身がしていた。その時の様子がウラジーミル・ボロヴィコフスキーの絵画に収められている。
エカテリーナ2世は書簡の中でも、大好きな犬の様子を綴るのが好きで、その文面の中で、乱筆を詫び、走り回る犬が紙を汚してしまったことを謝罪した。エカテリーナ2世が大好きだった犬の中には、トム・アンダーソンのひ孫にあたるゼミラがいた。ゼミラのためにエカテリーナは何も惜しまなかった。そこでゼミラは、エカテリーナ2世の古いテンの毛皮のコートの上で贅沢に眠った。エカテリーナ2世は犬たちの死をひどく悲しんだ。ツァールスコエ・セローを散歩するときには、必ずボリショエ湖のそばにある犬たちの最後の住まいがあった場所を訪れた。
ニコライ1世、1849年
Georg von Bothmannドイツのカールスバーグに休暇に訪れた人々は、ムニトという名前のプードルが数を数えたり、色を当てたり、トランプを当てたりするショーを必ず見たがった。この天才的なプードルについて知ったロシアのドミトリー・タチシェフ大使はこれをニコライ1世に贈るために購入した。ニコライ1世はムニトという名前をグサルと改め、心から大切にした。自ら散歩をし、朝食に運ばれてきたラスクを与えた。誰かを呼んでくる必要があるときには、グサルを呼びにやらせると、プードルは必要な人間を探し出し、洋服の裾を引っ張った。
アレクサンドル2世
Nikolai Sverchkov/Russian museumアレクサンドル2世は愛犬のセッター、ミロルドを散歩させ、この役目を誰にも譲らなかった。白い足をした黒いセッターのことは誰もが知っていた。ミロルドはときにいたずらをして、夏の庭園を散歩してる人たちに駆け寄っていった。ある日、祖母のところにクレンデリ(プレッツェル)を持って行こうとしていた若者は「幸運に恵まれた」。青年が皇帝を見るやいなや立ち上がり、敬礼をした瞬間、左腕からプレッツェルが奪い取られたのである。その犯人はもちろん、ミロルドであった。皇帝はミロルドに奪われたプレッツェルの代わりに、ケーキを用意する必要に迫られ、青年はさらにお詫びの印に何キロものチョコやキャンディを受け取った。
アレクサンドル2世
Nikolai Sverchkov/Ostankino Estateエカテリーナのグレイハウンドと同様、このセッターも子孫を残したが、仔犬の1匹を引き取ったのがレフ・トルストイである。ミロルドはアレクサンドル2世とひとときも離れることができないほど愛情を持っていたが、これが後に悲しい運命をもたらすこととなる。皇帝が1867年に万国博覧会のためにパリに出かけたとき、寂しさから命を落とすこととなったのである。
アレクサンドル3世は家族と一緒に
Public domain「わたしの周りにたった1人でも、無欲な友人がいるだろうか。いや、いるはずがない。しかし、犬は無欲である。カムチャツカはそんな犬だった」。アレクサンドル3世は白に斑のあるカムチャツカのライカのことをこう回想している。カムチャツカは、巡洋艦「アフリカ」号の船員たちが世界一周旅行から皇帝のために連れ帰ったもので、アレクサンドル3世はともに狩猟に出かけたり、自分の部屋で一緒に寝たり、ひき肉とレバーで特別に作ったご馳走を与えた。
カムチャツカの命は悲劇的な終わりを迎えた。クリミアからペテルブルクに戻る皇帝一家を乗せた列車がボルカの駅あたりで脱線し、皇帝夫妻と子どもたちは負傷しただけで済んだが、犬は亡くなってしまったのである。皇帝は忠実な友人である愛犬をガッチナにある自身の執務室の向かい側に埋葬するよう命じた。
ゾウに餌を与るニコライ2世
Public domainこの巨大な動物は、19世紀の初頭、贈り物としてロマノフ家にもたらされ、ツァールスコエ・セローにはゾウのための特別な館が作られた。心やさしい大きなゾウ数頭は、ニコライ2世のものであった。1891年、ニコライは東方への旅からインド象を持ち帰り、アフリカ象はエチオピアから送られた。ゾウには特別な飼育係がおり、彼らの世話をしたり、調教したりした。ゾウの飼育にはかなりのお金が必要で、それは年間1万8000ルーブルにのぼった。毎日、ゾウはバターで焼いたパンを2プード(1プードはおよそ16.38キロ)食べた。そして必ず池で水浴びなどをした後、エクササイズをしたという。ニコライ2世は日記にこう書いている。「アレクセイと一緒にゾウを池に連れて行き、水浴びさせてやった」。
アフリカ象は海兵が銃殺された1917年までツァールスコエ・セローに暮らしていた。
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