1920年代、ソビエト政府は工業化路線に舵を切った。新しく作られた工場は男女を問わず大量の労働者を必要としていた。給食態勢を一本化し、女性労働者を家庭での料理から解放するために生まれたのが、調理工場というプロジェクトだった。同時に、指導部はアルコール依存対策にも取り組んでおり、労働者が家で過ごす時間を減らし、より多くの時間を労働と同僚との余暇に使わせようと考えていた。最も望ましいのは、調理工場で時間を過ごすことだった。調理工場は、食事をとるだけでなく、持ち帰り用に出来合いの惣菜を買ったり、文化的な余暇を楽しんだりもできる場所だった。工場の建物には商店や郵便局、薬局、スポーツジム、図書館もあった。
調理工場を宣伝する広告
Public domain当初、調理工場は既存の建物を使って作られたが、間もなく専用の建物を建てる計画が策定された。巨大な複合施設で、「文化宮殿」になぞらえて「給食宮殿」とも呼ばれた。
モスクワの調理工場
Public domain標準的な調理工場は3~4階建てで、冷蔵庫と食料庫を備えた地下室があった。また、パン切り機や職員室のある半地下もあった。1階には製造作業場、研究室、客用のクロークルームがあり、さらに軽食堂や半製品販売所もあった。2階には食堂が、3階には宴会場があった。
調理工場には、床から天井まで伸びる高い窓か、ベルト状に伸びる窓が張られていることが多かった。いずれにせよ、工場内を明るくし、客に自然光の中で食事をとらせることを目的としていた。美的価値があると同時に、電力の節約にもなった。屋根は平らで、夏には机と椅子を並べて屋上席を設置することもできた。
モスクワの調理工場で食事を試食している職員たち
Alexander Rodchenko/MAMM/MDF/russiainphoto.ru/Sputnik最初の調理工場は1925年、イワノヴォ・ヴォズネセンスク市(現イワノヴォ)の捺染工場の社員寮だった建物で営業を始めた。この街は今でも「花嫁の街」としてだけでなく織物工業の拠点として有名だ。外装はそのままだったが、内装は根本的に変えられた。ドイツから料理設備を買い、冷蔵庫や昇降機、電動の食洗器、乾燥機、パン切り機が設置された。
1920年代末にはイワノヴォの工場で毎日最大600人が食事をとった。また、8つの工場の食堂の給食を作っていた。当時保健人民委員だったニコライ・セマシコは、この調理工場を「旧時代の生活に落とされた爆弾」と呼んだ。彼はこのプロジェクトを成功と見なし、間もなく同様の施設がソ連全国に現れ始めた。
中でも有名だったのが1928年にレニングラード街道で営業を始めた「モスクワ第1調理工場」だ。建物は象徴的にレストラン「ヤール」の正面に作られた(「ヤール」は革命前の貴族やインテリ芸術家が好んで大宴会を開いた店だった)。ソビエト・モダニズム様式の建物は、建築家アレクセイ・メシコフが一から設計した。建物には1200人を収容する食堂があった。調理工場の他、250人が入れる軽食堂もあり、朝・昼・晩の食事をとることができた。店や貯金局、郵便局、電信局も営業していた。住所録『全モスクワ』(Вся Москва、1936年)を見ると、1936年時点でモスクワには少なくとも25軒の調理工場があったことが分かる。
レニングラード(現サンクトペテルブルク)も負けてはいなかった。1930年、この街に一挙に4軒の調理工場がオープンした。最大のものはキーロフ地区の複合施設で、面積は2万平方㍍以上あった。この調理工場は「クラースヌイ・プチーロヴェツ」工場の労働者の給食を作っていた。
1929年、サマーラ市当局がマスレンニコフ記念防衛兵器工場に付属の調理工場を作ることを決めた。プロジェクトの指揮を任されたのは、ソ連初の女性建築家エカテリーナ・マクシモワだった。この時までに、彼女はモスクワや他の都市で「ナルピート」(人民給食組合)の専門家集団の一人として同様の建物の設計を手掛けていた。
サマーラの調理工場
Kak vse (CC BY-SA 4.0)マクシモワは、「将来、給食食堂は女性を退屈な家庭の義務から解放し、男性と同等の完璧な生活と自己表現の可能性を与えるはずだ」と考えていた。
マクシモワは構成主義様式の2階建ての建物を設計した。農民と労働者の団結を象徴するソ連のエンブレム、鎌と槌の形をした建物だ。1918年に画家エヴゲーニー・カムゾルキンが考案した鎌と槌の意匠は、ソ連の国章の一部になっていた。マクシモワの採用した奇抜な形状は、建物を機能別に区分するのに好都合だった。
1階の「槌」には厨房と技術室が配され、「鎌」にはクロークルームと子供用、労働者用、工場職員用の3つの食堂が置かれた。料理は「槌」の厨房から「鎌」の食堂までベルトコンベアで運ばれた。工場の一日の生産能力は9000食で、半製品も毎日3000食作られた。
2階には技術室と職員の作業室があった。1階とは6つの階段で結ばれており、吹き抜けは色鮮やかなステンドグラスで飾られていた。屋上にはテラスが設けられ、夏の天気の良い日にはここで食事をすることもできた。食堂の他、即席料理店や図書館、郵便局、スポーツ教室もあった。
調理工場には、外食施設として、家庭や小さな軽食店に比べていくつもの長所があった。食材を卸しで仕入れることができ、調理工程の機械化で生産性が高かったため、食事を家庭料理と変わらない値段でとることができ、時間をかなり節約することができた。それまで労働者は昼休みに作業場を離れ、持参したパンや簡単な食べ物を食べるだけだったが、今や労働者は皆明るい食堂で清潔な陶磁器の皿と輝く食器を使い、統一規格で作られた料理を食べることができた。
こうした長所にもかかわらず、1930年代半ばには調理工場は建設されなくなった。高度な技術を詰め込んだ建物の建設には費用が掛かったのだ。採算が取れず、やや状況の良い調理工場は、他の工場の食堂用に料理を卸売りしていた。この頃には多くの企業が自社の食堂を開設し、職員に給食を出していた。加えて、ソ連で食品産業が急速に発展して缶詰の生産が始まり、家庭での料理が楽になった。家で料理をするのを完全にやめるという風潮は結局生まれなかった。
調理工場はソ連崩壊の時まで営業していた。1990年代に民間企業が復活したが、調理工場の採算性は民間企業の経営陣を満足させるものではなかった。調理工場の建物を利用して、商店など収益の見込める施設が営業するようになった。
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